元ヴェルディ社長、坂田信久さんについて語る | ヴェルディの星

元ヴェルディ社長、坂田信久さんについて語る

現在東スポの毎週木曜発売号に、元ヴェルディ社長の坂田信久さんのインタビュー記事が連載されています。

東スポとバカにすることなかれ、なぜかうちらに関する情報が多かったり正確だったりするw

電車で読むの恥ずかしいでしょうが、木曜の東スポはお勧めw


坂田さんと言っても知らない若いサポも多くなってきたかもしれません。1999年から2002年途中まで社長を勤められました。

ヴェルディ愛なら歴代社長中文句なく最強。そして「東京ヴェルディ1969」の名付け親です。

今日も特にネタがないので、坂田信久さんについて書いてみます。ヴェルディを解散の危機から救ってくれた社長さんです。


坂田さんは1963年日本テレビに入社しました。学生時代、「日本サッカーの父」と呼ばれるテッド・クラマー氏の講演を聞き、サッカーを伝えるメディアの仕事をしたいとテレビ局を志望したそうです。入社面接では野球全盛の当時「野球は日本とアメリカだけ。世界のスポーツサッカーを伝えたい」と言ったそうです。

入社後は希望していたサッカーの仕事は中々できずもっぱら野球のみ。「サッカー?おまえはアホか?」と笑われながらもいつかはサッカーの仕事をしたいと。


それが転機になったのが1969年讀賣サッカークラブの誕生です。前年の1968年、メキシコ五輪でサッカー日本代表は銅メダル獲得。次はワールドカップだ。そのためにはプロ化しかない。そう考えた日本サッカー協会が、巨人軍で実績のある読売グループにプロサッカーチーム創設を打診したのです。後に古河閥(川淵も)に牛耳られたサッカー協会は、読売クラブに色々いじめをするのですが(ラモスの一年間出場停止とか)、そもそも創設を働きかけたのは協会だったのに…。


この時のサッカー協会野津゙会長と、読売グループオーナー正力松太郎の会談をセッティングしたのが若き日の坂田さん。こうして読売クラブ、後のヴェルディは誕生します。

そして読売クラブ1期生として、当時日本テレビサッカー同好会にいた坂田さんも選手として参加します。坂田さんはヴェルディの一期生だったのです!ここから坂田さんのヴェルディ愛は始まったのでしょう。


その後坂田さんは、当時関西開催でまったく人気が無く、主催の毎日新聞が放り出して崩壊寸前だった高校サッカーの中継権を獲得し、首都圏に誘致(1976年度)、日テレで高校サッカーの中継を始めます。念願のサッカー中継に関われたのです。坂田さんは中継を盛り上げるため、全国の高校を回って応援をお願いして行ったそうです。


トヨタカップ誘致も坂田さんが関わっていました。何か世界的なサッカー大会の中継をできないか考えていたころ、坂田さんと一緒に読売クラブ立ち上げに奔走した読売新聞記者・牛木素吉朗さん(サカマガのコラムでお馴染みでした)のアドバイスで、欧州と南米のホーム&アウェーでやるのが困難になっていたインターコンチネンタルカップを第三国である日本で行おうと提案。

こんな素晴らしいアイデアも、当時の日本サッカー協会には「なんでそんなめんどくさい話持ち込むんだ」と迷惑がられたそうですが、とにかくこうしてトヨタカップが実現。坂田さんを中心に制作されたサッカー中継が全世界に配信されることになりました。


今みたいにサッカーが市民権のある時代じゃなくまったくのマイナースポーツであった時代、坂田さんのプロデュースした高校サッカー決勝戦とトヨタカップだけは国立競技場が超満員になったのです。


その坂田さんが再び読売クラブ=ヴェルディに関わるようになったは、経営的に深刻な危機を迎えていた1998年のことでした。専務としてヴェルディに派遣された坂田さんは、このままではヴェルディは破綻する、大胆なリストラを実施するしかないと結論を出します。

かと言って決して冷血なコスタカッターでなく、フランスW杯代表落ちして傷心の帰国をしたカズキーちゃんを他の選手がランドで待ち、そして(練習時間は終ってるのに)再び練習始めるのを見て、「このクラブを絶対に潰してはならない」と決心したそうです。


坂田さんのリストラ案を聞いた親会社は、「じゃあお前が社長になってリストラ実施しろ。できなきゃヴェルディ解散」と言う厳しい現実を突きつけられたそうです。

そこでまず手を付けたのが、高額年俸のベテラン選手に卒業してもらうこと。カズヤスラモス哲さん…。

親会社からの天下り社長によくある、いきなり社長室に呼んで「君、来年は戦力外だから」なんて失礼なやり方でなく、ホテルに呼んで説明して…。坂田さんもきっと辛かったことでしょう。その時カズには「もし年俸タダでいいから残してくれって言ったらヴェルディに残してくれます?」とまで言われたそうですが…。


こうして大胆にリストラし、予算が半減した1999年「改造ヴェルディ」は、若手の起用が当たりきなり2位に躍進します。まあこの時の李さんが連れてきた選手は大活躍したけど、その後J2降格でみんないなくなると言うことも起きましたが…。

そして2001年東京移転。新チーム呼称「東京ヴェルディ1969」を考えたのは坂田さん自身だそうです。それもいきなり「そう決めたんでよろしく」なんてことをせず、きちんと事前にサポに相談しています。

この時坂田さんは読売クラブ創設時代から温めていたプランを実施します。それはサッカーだけでない、総合スポーツクラブを創る夢。2001年東京ヴェルディバレーボールチームが誕生します。その後トライアスロンセッションも誕生しています。


1969年読売クラブ誕生時、坂田さんは企画書段階で、サッカーだけでなく、巨人軍を中心に色々な種目のスポーツが一緒になる地域総合スポーツクラブをよみうりランドに創立することを提案していました。この時はこの案は却下されたのですが、その夢が30年たってようやく実現の一歩が踏み出せたのです。

私が今必死に応援してるヴェルディバレーチームも坂田さんが残してくれたものなのです。


2002年シーズン途中、開幕5連敗の責任を取る形で坂田さんは退任してしまいました。私はそれが残念でなりませんでした。


坂田さんはランドに練習見学に来るサポ一人一人に声をかけて回っていました。1999年少年サッカー決勝(喜山、弦巻、三原、森本がいた時代)ではランドで自ら旗振って応援していました。まさにヴェルディ愛に足が生えて歩いてるような方でした。


現在坂田さんは、国士舘大学の教授を勤める一方、Jリーグにマッチコミッショナーも勤めています。講演会に出演されることもあるので、会社休んで聞きに行ったこともあります。

まだまだ、隠居される方ではないでしょう。いつの日か再びヴェルディの経営に関わってもらいたい、私は本気でそう思っています。