いずみです。
いつもありがとうございます(^_^)
できないことが、できるようになる。
できることが、さらにできるようになる。
そんな変化って嬉しいですよね。
「もっともっと!」って上を目指すのは素敵なことです。
ただし、純粋に「そうしたい!」という自分がいるならば。
私が思い出すのは、子どものころ、自転車に乗る練習をしたこと。
ちょっとでも乗れるようになると嬉しくて「もっと乗れるようになりたい!」って、転んでもめげずに乗りまくってました。
誰に言われたわけでもなく、むしろ「ごはんだからもう帰ってこい」なんて親に原っぱから引きずり出されるまで、乗っては転び、転んでは乗る、を繰り返していました。
あのころはもう「○○したい!」のカタマリ。まさに「やりたいからやる」そのものだったなー(笑)
みなさんも、そんな経験ありませんか?
でも時間が経つにつれ、同じ「もっと」にしても、
もっと頑張らなきゃ
もっとできるようにならなきゃ
もっとしっかりしなきゃ
もっとちゃんとしなくちゃ
もっといい人にならなくちゃ
・
・
・
のように、いつの間にか語尾が「したい」から「ねばならない」に変わってしまう。
もちろん、純粋に「やりたい」場合でも、こんな言い方になることはあります。
でも、ただただ自分を急き立てるように、こんな言葉で頭が占領されてませんか?
そして自分はダメ人間だから、そうやって叱咤するのが当たり前、なんて思ってませんか?
そういう時は「疲れ具合」に意識を向けてみて下さい。
上を目指すときは、当然動かなくちゃいけないから、身体が疲れることもあります。
でも、それ以上に心が疲れてませんか?
それどころか「○○しなくちゃ」で頭がいっぱいになってて、身体を動かす前に心の疲労でぐったりしてませんか?
(当然、結果は出ない)
そんなときは、
過去の誰かに叱られ続けている
可能性が大きいそうです。
「もっと○○しなきゃ」の後に「叱られる」が続くわけです。
うん、確かにそうかもしれませんね。
その出来事は過去のことで、とっくの昔に終わってるのに、感情のほうは、まだ終わってない。
特に頑張らなくていいときでも、今のままで十分なときでも、過去に言われた
もっとしっかりしなさい
もっとがんばりなさい
もっとちゃんとしなさい
が、今でも消えることなく鳴り響いているんです。
その声に応えないと振り向いてもらえないし、愛してもらえないからやらなくちゃ、と焦りながらも、
どこかに「やりたくない」「やらなきゃいけないの?」「もう頑張りたくない」という真逆の思いがある。
(こっちが本音やね)
その葛藤で疲れ果て、気ばかり焦っても実際に行動できるパワーはあまり残ってないから、現状はほとんど変わらない。
そこに過去の誰かの「もっとちゃんとしなさい」と叱る声が追い打ちをかける・・・そんな悪循環が生まれます(>_<)
もし今「もっと○○しなきゃ」と思いながらも、あまり結果がついてこない、という現実があるなら、
語尾を「もっと○○したい」に変えてみて下さい。声に出すのもOKです。
すんなり入ってきますか?それとも抵抗ありますか?
もし抵抗があるなら「もっと○○しなきゃ」の呪縛をゆるめるタイミングかもしれません。
本当に「もっと○○しなきゃいけない」んでしょうか。
そう思い込んでるのは、案外本人だけかもしれませんね
今日もご訪問いただき、ありがとうございました。
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