というわけで、今回のイギリス滞在の最終話。

『リア王』について。

サム・メンデス演出、サイモン・ラッセル・ビール主演、ナショナル・シアターのプロダクション。運良く2月24日と3月1日の2回の公演を観ました。チケット発売日に出遅れてソールドアウトになってしまい、、、ううっ、これは困った、、、と思ってたんですが、こまめにサイトをチェックして、リターンチケットを狙ったところ、なんとか入手に成功。最初は1階席の中央付近、2回目は2階席。見え方の違う席からじっくりと味わったわけです。


ここであらためて、僕がこれまでに観たサム・メンデス演出のシェイクスピア作品はをあげてみると、、、

『オセロー』
『十二夜』
『冬物語』
『お気に召すまま』
『テンペスト』
『リチャード三世』

今回の『リア王』が、合計7つ目の作品になります。
サム・メンデスと、彼の盟友であり現代イギリスの名優でもあるサイモン・ラッセル・ビールのコラボレーションは、2009年の『冬物語』(と、そのとき同時上演された『桜の園』)以来。そしてサム・メンデスが演出するいわゆる“四大悲劇”、さらにナショナル・シアターでの演出は、1997~98年の『オセロー』以来なので、、、16年ぶり!

思えば、当時の銀座セゾン劇場で観たあの『オセロー』が、初めてのサム・メンデスの演出作品で、、、当時まだ演出の何たるかをきちんの理解していたわけではなかったけれども、「いやー、すんごいもん観たわ!」と興奮したをよく覚えてます。そしてあのプロダクションでイアーゴを演じてたのが、サイモンで。あれも本当に強烈だった。。。

以降、サムとサイモンのコラボレーションで、『十二夜』『冬物語』を観ましたが、この2本は、僕が人生で観た最高の芝居ベスト3から絶対漏れることがないプロダクション。・・・つまり、このふたりが揃ったシェイクスピアは、どう考えても最高、ということ。演目がなんであれ、【サム・メンデス演出、サイモン・ラッセル・ビール出演】と銘打たれただけで、世界中どこにだって観にいく価値がある、ということです。

とはいえ、今回の『リア王』というチョイスは少なからず驚きでした。まず何より、リア王と言えば、ご高齢の名優が演じるものっていう印象があるもの。サイモンだって50歳は過ぎてるけれど、、、でもリアを演じるにはさすがに若いと感じてしまうのでは、、、? それに、サムの演出って、登場人物たちの心の機微を読み解き、ある種の“心理劇”に仕立てていくっていう特徴があるわけです。『オセロー』は言わずもがな、2011~12年にケヴィン・スペイシー主演で上演した『リチャード三世』ですら、”天下取り”のプロセスでの心理戦の要素を浮き立たせて描いていて、「わぁ、そんな発想があったか!」とビックリさせられたんですよね。しかし、、、『リア王』で、それが可能なのか? 


・・・で、どこから書くべきか、、、


あ、この先いろいろとネタバレがありますので、ご注意を。


じゃあ、まずは、サイモンのことから。


◯サイモン・ラッセル・ビールの“リア王”◯



このプロダクションにおけるサイモン・ラッセル・ビールは、本当にすごい。ちょっと信じられないほど、凄まじいレベルの芝居をしてる。


「いま、この世に、これ以上の芝居ができる俳優がいるだろうか?」


あまりよいことではないことを理解しつつ、真剣にそう考えました、というか、考えざるを得なかった。そして、もし日本に誰かこういう方向性でリアを演じられる人物がいるとしたら、、、僕には亡き中村勘三郎さんしか思いつかなかった。勘三郎さんだったら、こういうリアを演じることが可能だったかもしれない。つまり、残念ながら、現在のところは“過去形”で語るしかないんです。

とにかく、観ていただきたい。特に日本の若い俳優たち、俳優を目指そうとしてるひとたちに。サイモンの芝居を観て、このすごさを体感してほしいと、心から思います。


サイモンの芝居の何が具体的に凄いのかという点、それはもちろん総合的に、そして多岐に渡ってのことなんだけれども、ひとつ具体的な例をあげます。

拙文で申し訳ありませんが、サムとサイモンのコンビで上演した『冬物語』について書いた、5年前(2009年6月18日)のブログに、僕はこんなことを書いてます。引用します。

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数日前に『ハムレット』について書いたブログに、こんなことを書きました。それを今再び思い出してみるわけですが、シェイクスピアの場合、表現にいたる流れの理想はおそらくこうなるのです。

【想いの知覚→言語化→行動化】

これが俳優によって体現されたとき、それらの言葉はセリフとして既に台本の中に書かれていて、それを私たちはよく知っているにもかかわらず、あたかもここで初めてその言葉が使われ、私たちはその言葉を今初めて聴いたかのように感じる。言葉は常に新鮮に生まれ変わり続けるのです。サイモン・ラッセル・ビールの芝居を観ていただくと、このプロセスがはっきりわかるはずです。“嫉妬”の強い感情・想いがあり、その想いがダイレクトに言語化される。言葉がその瞬間に生まれでる。それらひとつひとつに私たち観客は揺さぶられ、笑わされ、驚かされ、怖がらせられ、感動させられる。それも【理性と感情】【無意識と意識】といった対立軸の中で。そして表現がものすごく自在で多彩であること。


http://ameblo.jp/punipunikidori3/entry-10281721137.html

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この文章に書いたひとつの図式、【想いの知覚→言語化→行動化】というのは、シェイクスピアを演じるうえで大変な肝になるところで、多くの場合(特に日本でシェイクスピアを演じる場合には)、間違ってしまうところなんだよね。たいていは、行動が言語に先走ってしまう。でも言葉が先に形作られることが、シェイクスピアならではの醍醐味であり、これは何語で上演されようと適応されるべき指針だと、僕は少なくとも、思ってるわけです。

で、いまここで問題にしたいのは、”→”の時間的な長さなんですが、これっていうのは、決して一定じゃないんですよね(もちろん)。長い場合、「想いの知覚」は意識化にあり、思考したり検討したりすらしている場合がある。短い場合には、「想いの知覚」は無意識もしくは本能的である可能性があり、言語化されたことで、初めてその“意味”が発語した本人にも理解できたりする場合すらあるわけです(私たちの日常の対話でもそういうことってありますよね、誰かとしゃべってて、そのとき自分の言ったひとことで、「あ、俺ってそんなこと考えてたんだ」って自分で驚いてしまったり、みたいな)。

サイモンの場合、この“→”の長さが絶妙なうえに、場面に応じて自在に変えられるんですよ。その取捨選択が上手い。

今回の『リア王』において、その上手さが遺憾なく発揮された最たる例が、第一幕第一場。
自らの領地を三分割して3人の娘に均等に分け与えることを決め、彼女たちにいかに父親を愛しているかを語らせる場面、父への愛情の深さ故に耳障りのいい言葉を語ることができなかった末娘コーディリアに対してリアが激昂し、とりなそうとした忠臣ケントを追放するなど理性を失ったかのように振舞い、やがて自らの言い分を語るコーディリアに対して、リアが放つひと言。

お前など 
 生まれてこなければよかったのだ、俺の機嫌を損ねおって




この写真にあるように、第一幕第一場ではマイクが使われます。リアが激昂し狂乱する場面では舞台上あちこちを移動して机をひっくり返したりしながらオフマイクでしゃべるんだけれど、上記のセリフは、マイクを使って、声を拡大して言うんですね。

そのときの、サイモンのセリフの言い方は、

お前など生まれてこなければよかったのだ、(間)俺の機嫌を損ねおって

というふうになる。
この、(間)が、大事。

・・・このとき、【想いの知覚】から【言語化】までの“→”は、極めて短い。“無意識”の範疇です。そして激情に駆られた自分がマイクを通して言った言葉を、リアは聞く。そしてようやく、意味を理解する。理解して、からの、(間)がある。もちろん、ほんの一瞬です。1秒あったかないかの短い(間)。でもそれが観客である私たちに何を感じさせるのか。リアがその瞬間に何を理解したのか。



「そのひとことは、言うべきではなかった」



言葉にして初めて、その言葉は、いまここで語られるべきではなかった、とリアが、理解した。しかもよりによってマイクを使ったことで、舞台上にいる全員が思うのです、リア王は、確かに、本来いまここで語られるべきではない、恐ろしい呪いのような言葉をコーディリアに吐いたのだ、と。そしてもうそれは決して否定し消すことができない。「私(リア)は、そのひとことを、言うべきではなかったのだ」、そのように、私たち観客は、(間)があることで、捉えられるわけです。

稽古場の様子を想像するに、サイモンは、俳優として、リアは「お前など生まれてこなければよかったのだ」などと言うべきではなかった、ということを理解している。だから、稽古で「俺の機嫌を損ねおって」を言葉にする前に、ほんの一瞬の(間)を置いた。そういう芝居を選択した、ということ。そして、サイモンのその芝居を受けて、演出家であるサムが、「お前など生まれてこなければよかったのだ」を、マイクを通じて言うように演出を付けたんだろう、と。この瞬間は、今回の『リア王』の、決定的に重要な意味を帯びたものでした。サイモンの芝居とサムの演出のコラボレーションの真髄が、この瞬間を創り出したわけです。


そして、さらに注目すべきなのは、、、【想いの知覚】から【言語化】までの“→”の短さこそが、サイモン(とサム)によるリアの芝居を読み解くうえで、極めて重要な鍵になっている、ということ。


◯52歳のリアはいかにして可能だったか◯

例えば、70歳ぐらいの名優がリアを演じたとして、それが一般的な『リア王』のイメージだけれども、リアが登場してすぐに言う以下のセリフ、

(略)・・・これまで胸の奥深くに秘めてきた計画を披露しよう。(中略)・・・私は王国を3つに分けた。固く心に決めたのだ、煩わしい国務はすべてこの老体から振り落とし、若い世代の力に委ね、身軽になって死への道を這って行くつもりだ

これは、何の疑問なく受け入れることができます。リアが国王を引退し隠居したいと考えること。彼自身に息子が、つまり正統的に国を統治する資格のある子どもがいないために、正しいかどうかは分からないまでも、寵愛する3人の娘たちに土地を委譲したいと考えること。まるでリアの家臣となったかのように、観客は国王の言葉を受けとめるわけです。

しかしリアが、52歳だったらどうか(52歳というのは、サイモンの実年齢です)。

やや違和感がある。私たちはリアに、「引退するにはまだ早過ぎるのではないでしょうか?」と進言したくなるのではないかしら。リアは、マクベスやリチャード三世のように、策略によって王位を得た悪王ではありません。彼はその権威に相応しい威厳で、多くの忠誠的な家臣に支えられた良王です。信任も厚く、国家も安定している。悪意を張り巡らせて陥れようとする者も(いまのところ)いない。引退するには若過ぎる、と考えるのが自然というもの。

じゃあ、何故、、、?
“若き”リアは引退し、王国を3分割して娘たちに委譲しようするの?

私たちはそのミステリーを解読したいと当然考える。ミステリーの解読に値する示唆が、サイモンの芝居とプロダクション全体から感じられるのか。これって、プロダクションの評価を決定付けるほど重要な問題になってくると思うんですね。そこに説得力がなければ、サム・メンデスといえどもさすがにキャスティングへの疑問を突きつけられることになりかねない。


結果から言えば、もちろん、サイモンの凄まじい演技力と、サムのこれまた凄まじいディテール理解によって、このプロダクションは完璧な答えを示唆することに成功しています。この、「答えを示唆する」というところがまた重要。明確には説明されないんですよ。でも舞台上にあるいくつかの要素を組み合わせると、観客はいつのまにか答えを受けとったような気がする、のです。・・・嗚呼、これこそ演劇の醍醐味。

リアがこの時点で引退を表明した本当の理由は、誰にも知らされていません。それはリアだけが心に秘めて知っていること。リア自身は、自らが抱えている問題を誰よりも理解している。偉大な国王は、おそらくその娘たちへの愛情と優しさ、そして自らに対する“誇り”故に、その事実を誰にも伝えることなく、引退する気でいる。

しかし、このプロダクションでは、上記のセリフを語る際にリアが観客に背を向けた状態になるんだけれど、それゆえに、観客には、最初のヒントが示唆されるんですね。舞台上で対峙している3人の娘たち、オールバニーとコーンウォールの両公爵、そしてケントやグロスターを始めとする家臣たちには気づかれないし、むしろリアは彼らに気づかれまいと振る舞っているようにもみえる。

リアのちょっとした仕草に、手先の震えやこわばりが垣間見える。歩き方もどこかしらぎこちなく、決して自然ではない。・・・そしてやがて場面が進み、特にゴネリルとリーガンからの拒絶を受けた第二幕第四場以降、リアはあたかも狂人のように振る舞い、一体何を話しているのか分からないような状態に陥ってしまう。幻覚や妄想をみているかのように。しかし、もしその段階で、リアの目の前に本当に幻覚や妄想が現れているのだとしたら、、、?

これらを総合すると、リアはある“病”を発症している、と考えられる。

そして、52歳のサイモンがこのリアを演じることで、リアの、病に対する恐怖、病によって自分が自分でなくなってしまうかもしれない可能性を察知した「人間的な苦しみ」を、よりリアルに感じることができる。大変失礼な言い方になるけれど、70歳のリア王であれば、ある種自然の摂理として受け入れることができます。しかし、若くしてその病を発症することは悲劇的であり、哀しみは否が応でも強調されることになる。誰からも尊敬を集め信任の厚い良王が、ある病を発症した故に、若くして権威を委譲せざるを得なかった、しかし彼自身の誇りによって誰にも真意を伝えることができず、それ故に誤解が生まれ、結果コーディリアを勘当し、残る2人の娘たちの拒絶に合い、様々なレイヤーでの悲劇が進行していく。『リア王』はよりリアルな、人間のドラマとして、観客の心をより大きく揺さぶることになるのです。

この“病”の状態を、サイモンは本当に信じ難いレベルで、精密に表現するんですよ。はっきり言って、どこにも芝居臭さがない。“患者”が本当に目の前にいるようにしか見えない。それだけでも凄いことだし、そこだけを注目するだけでも、観る価値がありますよ。

しかしサイモンがもっと凄いところは、もっと先にある。
シェイクスピアの表現の図式を思い出していただきたい。


【想いの知覚→言語化→行動化】


【想いの知覚】から【言語化】までの“→”の長さが長ければ長いほど、それは“意識的”です。“論理的”と言ってもいい。想いを知覚して、それを正しく言語化しようとしたり、推敲したり、ということが発生していると言えるわけですね。

今回のサム・メンデスとサイモン・ラッセル・ビールの『リア王』を理解する重要な鍵となる場面はどこかと言えば、おそらく第一幕第五場の、リアと道化の会話でしょう。ここがありとあらゆる意味で、このプロダクションにおける“Centre of Universe"と言っていい。・・・というか、これじたいが、どうしたって驚きです。だってここは普通そんなに重要視されないばかりか、何でもなく通りすがりのように扱われてしまいがちな場面ですよ。日本語でだって3ページ分しかないんだもの。

ここに、以下のようなリアのセリフがあります。

ああ! 天よ、気を狂わせないでくれ、狂わせるな。
 正気を保たせてくれ。狂ってたまるか!


日本語でこの場面を演じてるところを想像してみると、「ああ!天よ」っていう呼びかけが如何にも印象強く、リアが両手を広げながら天を仰ぎ、大きな声でこのセリフを言うっていう、”慟哭”の絵が容易に浮かびます。そしてそれがとても正しいことのように感じられます。「天よ!」というセリフがそのようにさせるわけだ。

しかし、サムとサイモンはこのセリフをそのように処理しないんですね。

原文(英語)だと、

O, let me not be mad, not mad, sweet heaven!
 Keep me in temper, I would not be mad!


となります。ここ、正直ちょっと確かではなくて、たしかそうだったというあいまいな記憶ではあるのですが、、、このセリフの、「sweet heaven!」という箇所を、カットしていたはずです。つまり、日本語で演じたときに最も問題となるであろう「天よ!」という呼びかけがなくなっている(、、、はずです、おそらく)。そして、それ以外の残りのセリフを、サイモン=リアはこのとき、道化とともに地べたにちいさく隣り合わせで座った状態で、そっとささやくように、道化に向けて、語るのです。そして、”mad”という言葉が出てくる度に、ゆったりと間をとり、彼はこの言葉の意味を十分に噛み締める。この芝居中、【想いの知覚】と【言語化】の“→”の長さが最も長いのがこのセリフでした。リアは、十分に意識をして、すがるように、道化にだけそっと本心を打ち明けるのです。リアが抱えているもの、恐れているもの、彼の弱さ、それらが一気に去来する。なんと人間的な瞬間だろうか。そして、残酷なことに、この場面は、リアが普通の状態であった最後の場面となるのです。第二幕からは、もう明らかに病がリアを巣食っていく。リアの口から語られる言葉に、本心から語られることと、幻覚/妄想の域で語られることが入り交じり、バランスが大きく崩れていく。

そして第二幕以降、サイモン=リアは、【想いの知覚】と【言語化】の間の”→”の長さは、どんどんと短くなっていき、そしてやがては、限りなく「0(ゼロ)」に近くなっていくのです。なぜなら、リアは、病が進行することによって、どんどんと記憶を失っていくからです。そして記憶とともに、論理性、整合性も失われていく。リアは、ただただ知覚したことを言葉にしていくだけになる。自分が何を言っているのかを理解することすらできなくなっていく。リアは、あのとき道化に語った、「気を狂わせないでくれ」という状態に陥る、がしかし、あのとき恐怖していたことすらも既に忘れてしまっているのです。


・・・少し話が逸れますが、サイモンの芝居においては、幕と場面が進むにつれて、やがてほとんどの本当の記憶を失ってしまうことで、リア自身人生が楽しそうに、楽になったように見えるところがありました。僕はそれを理解できます。本当の記憶が残っている状態であれば、誇り高き国王である自分がいまどんな“狂乱”に巻き込まれているのか分かったとしたら、それを受け入れるなんてことはできないはず。リア自身の怒りと悲しみはもっともっと強く深くなって表れたことでしょう。しかし、リアにとって現実は、もはや現実ではなく、幻覚や妄想になってしまっているんですね。第四幕第六場の、ネズミのシークエンスなんてその最たる例。記憶を失い、強い怒りと悲しみを感じる必要がなくなった今、多少口は悪くとも、先祖帰りして子どもになったかのように、目の前で起きていることを楽しんでいる様子なのです。ひょっとしたら、そうなのかもしれない。過去の記憶によって、人は自分を規定し押し止めることができる、一方で、それが失われる可能性を目の前にすることで、圧倒的な恐怖や弱さが生まれるとも言える。しかしそのタガが一回外れてしまったら、、、それは、その人にとっては、自分を規定していたもの、恐怖心や弱さからの、「自由」、でもあるのかもしれない。サイモンの芝居をみながら、そんなことも考えました。


◯リアと道化◯

さて、もう一度、第一幕第五場に話を戻します。

というわけで、この場面に、今回の『リア王』を理解するための鍵があるわけなのですが、僕はさっきこの場面のことを、こう書きました。

サイモン=リアはこのとき、道化とともに地べたにちいさく隣り合わせで座った状態で、そっとささやくように、道化に向けて、語るのです。

「気を狂わせないでくれ」「正気を保たせてくれ」というのが、リアの偽らざる告白であり、ここにリアが抱える恐怖心と人間的な弱さが垣間見える。そして、これが「何故“若き”リアはここで引退し、王国を3分割して娘たちに委譲しようとしているのか?」というミステリーに対しての、極めて重要なヒントになる、という意味でも、重要な場面なのですが。

もうひとつ、この場面が示唆する重要なこと。それは、リアがある病を発症し、若くして権威を委譲せざるを得なかった、しかし彼自身の誇りによって誰にも真意を伝えることができなかった、だけれども、、、道化は、リアが自分の恐怖心や弱さをさらけだすことができる唯一の人物だった、ということなんですね。



↑これはリアと道化が一緒にいる場面。
今回のリア王で道化を演じたのは、エイドリアン・スカーボロー。

サム・メンデスが演出するシェイクスピア作品では、誰かひとり極めて意外な登場人物をフィーチャーして、観客が予想だにしなかったドラマを生む、ということがよく起こります。普通のプロダクションではあり得ない視点を、誰かひとりをフィーチャーすることで観客にもたらすんですね。『冬物語』であればそれはマキシミリアンであり、『お気に召すまま』ならアダムがそれにあたる。そして今回のリア王でのそれは、道化、でした。

とはいえ、『リア王』における道化の重要性は以前から様々な形で語られ、実践されてきてもいます。その意味では、マキシミリアンやアダムのように、フィーチャーされるのがほんとに意外かといわれればそうでもないのかもしれない。かつて蜷川幸雄がロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで『リア王』を演出したとき、リアはイギリスの名優ナイジェル・ホーソーンでしたが、道化をやっていたのは唯一日本から参加した真田広之さんでした。このキャスティングは様々な議論を呼んだし、実際必ずしも成功とは言えなかったかもしれませんが、それでも蜷川氏が道化の存在を重要視しているがゆえの真田広之起用だった、ということは言えるだろうと思うのですよ。

しかし、サム・メンデスの道化の扱い方はどうしたって独特。道化の存在によって描かれたドラマがあまりにも強烈で、思わず観客の胸を抉ってしまうほど。そして第四幕以降、というよりも、シェイクスピア作品でこれ以降、「道化がただの一度も登場しないのは何故なのか?」という興味深い議論に対するひとつの答えすら鮮やかに教示してしまっている。いやこれ、すごいことだと思うんですよ。ほんと。


道化に関して、河合祥一郎さんは、次のように書いています。

道化は、その劇的機能から言えば、主人公に影のようにつき従い、主人公と運命を共にする影法師(ドッペルゲンガー/分身)であると同時に、その鋭い洞察力によって主人公の影ーユング的意味での影=欠点・弱さ・愚かさーを明らかにする働きがある。

この指摘のとおり、今回エイドリアン・スカーボローが演じた道化は、リアとともに運命を共にするし、そして「リアが道化にだけは本心を打ち明けることができる」ということを逆に考えれば、道化の存在によって、リアの“影”が明らかになる、というわけなので、まさに道化が道化の役割を見事に担っている好例ということになります。

しかし、今回の『リア王』で、道化について最も注目したいところは、リアの“ドッペルゲンガー”としての役割の担い方、そしてその徹底っぷりなんですよ。

上の写真でも分かるとおり、今回の道化は、サイモン=リアとほとんど変わらないぐらいの年齢に設定されてます。極めて長い間リアのもとにいたであろうことが示唆されます。想像/妄想はさらに進んで、舞台をみながら、僕にはこのふたりは幼なじみのように子どもの頃から一緒に過ごしてきたかのようにすら見えた。リアの真意(”O, let me not be mad, not mad”)だって、この道化でなければ打ち明けてはいなかっただろうと思わせるほど。むしろ、このとき道化はリアがまだ正常でいられたときの最後の言葉=遺言を託されたんじゃないかと、僕には思えました。それぐらい、彼らの関係は非常に近いんです。



ところで、この道化、本当に役立たずなんですよ。

ウクレレみたいな楽器を持参してるけれど、決してうまく弾けるというわけではない。リアと家臣である兵士たちがいる前で得意気に辛辣なことを言ったりするけれど、身内たちは笑ってくれるものの、客席の私たちはさほど笑えない。いや、これほんとに。シェイクスピアの他の作品だって、道化のセリフって笑えますよ、普通。でもほとんど笑えない。舞台上だけでウケてる。要は、内輪ウケだけしてる感じ(・・・もちろん、これはサムの演出的意図のはずです)。また、世の真理をつくような皮肉を飛ばしたりとかするイメージがありますが、これもない。ただ彼の実感で物事を語るだけにすぎないのです。

この道化が、昔、若かりしころ、どうだったかはまったく定かではありません。ここで確かに言えるのは、この道化はもはや無能だ、と。そしていまやリアと同じぐらいの年齢になって、内輪でだけウケるようなことしか言えない、道化としては役立たずな存在で、道化稼業(というものがあるかどうかは別にして)からの引退を考えたほうがいい。そんなふうにいいたくなるような、感じ。

つまり、道化自身、いつ引退してもおかしくないような居方なんですね。そして、そのことを、道化は誰にも打ち明けることができない。でも、舞台上の道化をみながら、彼自身、潮時であることを感じてるんじゃないだろうか?と、想像してしまうのです。そしてそして、だからこそ、この道化は、リアの真意を、恐怖、弱さ、痛みを、誰よりも深く理解することができる。できてしまう。ある意味本当に、そして徹底的に、リアと道化は、ドッペルゲンガーなんです。


そしてーーー、


これ、完全にネタバレしちゃうけれど、、、しかもたぶんネタバレしちゃまずいぐらいの、このプロダクションの肝でもあるところ、、、でも、これものすごく重要なことなので、えい!書いてしまいます。読みたくなかったらここ飛ばしてください。


第三幕第六場。

グロスターの秘密裏の行動によって、農場にある一室に匿われた、リア、変装したケント、哀れな“トム”に扮したエドガー、そして道化。

野宿しなくて済むことになった一向は、少し気分がよくなったのか、急に”裁判ごっこ”を始めます。最初は和気藹々と、その部屋にあった便器やバスタブ、木箱などを並べながら場所を整え、笑い声すら挙げたりして遊んでいるが、しかし、リアの長女・ゴネリルを裁くという場面になった途端、幻覚(おそらく)の中で道化をゴネリルだと勘違いしたリアは、道化をバスタブに押し込め、硬い棒で何度も何度も殴り、撲殺します。血に染まる棒と、バスタブ。息が詰まるほど凄惨な場面(しかもこのあとにグロスターの両目が抉り取られる最も残酷な場面が続く、、、どちらもかなりリアルに演出してて、、、)。リアの病が引き起こす幻覚や妄想の中で、リアは一体誰を殴っているのかまったく理解できていないし、それどころか、この芝居の最後まで、リアは自分自身が道化を撲殺したことを覚えていないのです(第五幕第三場、リアが死ぬ直前の最後のセリフは、“And my poor fool is hang'd!No, no, no life!”と始まります。リアがこの世で最後に残す言葉では、コーディリアのことともに、道化のことが語られるのです。しかも、道化が姿を消した本当の理由をリアは知らない。・・・僕は、このセリフで、おおいに泣きました)。


道化を撲殺することで、リアは、本当にたくさんのことを葬った。無能で役立たずの道化、しかし本心を打ち明けることができた唯一の存在であったはずの道化、そして、自分自身の分身=ドッペルゲンガーとしての、道化。さらにこのインシデントの直接の引き金となったゴネリル、それだけでなくリーガンとコーディリアとの決別でもあり、「“I would not be mad”」という祈りをかつて道化に語っていた誇り高き王としての自分自身にもはや戻れないことを告げる行為でもあった。これは「決定的な敗北」であり、ある意味で、リアは自ら死を宣告したといっても過言ではありません。

実際、リアは、“タイトルロール”でありながら、このあとしばらく舞台に登場しません。次にリアが登場するのは、第四幕第六場。この間に、物語の軸はグロスターとエドガーの親子に移っていきます。

おそらく、道化をここまで徹底的に掘り下げて、フィーチャーした例はやっぱり他にないんじゃないかと。誰かをフィーチャーすることによって、このようにまったくもって新しい視座とドラマを示してしまうところに、サム・メンデスという演出家の真の非凡さがあるんですよね。


◯兵士たちの存在とその役割◯

今回の『リア王』は、サム・メンデスがナショナル・シアターのオリヴィエ劇場で初めて演出する作品になるんだそう。1,125席を擁する美しい半円形劇場は、2階席の一番後列からでも比較的見やすく臨場感も十分に味わえますが、それでもやっぱり「ああ、広いな」と感じるスペース。この広大な舞台空間で『リア王』を上演するにあたり、あらゆる技術的な仕掛けを使っています(舞台美術はアンソニー・ワード)。『チャーリーとチョコレート工場』でもそうだったし、ナショナル・シアターのプロダクションであった『War Horse』もそうでしたが、『リア王』でもビデオ・プロジェクションが効果的に活用されています。大劇場においていまやビデオ・プロジェクションは欠かせないトレンドになってるんだなぁ。

しかしですね、空間を効果的に使うという意味において、この『リア王』でももっとも特徴的だったのは、兵士たちの存在でした。第一幕第一場、舞台後方には30名近い屈強な体格の兵士たちが居並ぶんですね。少し上の道化の写真を見てもらうと、その兵士たちの様子が一緒に映り込んでいます。シェイクスピアの悲劇あるいは歴史劇には、家臣とか兵士とかは確かに出てきますが、この『リア王』ぐらい大勢の兵士たちが実際に登場するプロダクションなんてこれまで見たことがない。

しかも彼らは全員機関銃を所持している。

このプロダクションでは、舞台は近現代であると設定されています。それに加えて兵士たちのこのいでたちですから、近現代の軍事国家であることは明白です。近年の中東情勢や北朝鮮など、あるいはチェ・ゲバラとか、実際に想起できる国や場所はたくさんあり、観客にとっても十分アクチュアリティを感じ取れる設定になっているわけ。

しかしですね、居並ぶ兵士たちというのは、彼らの圧倒的かつ高圧的な迫力でもって舞台を埋める、時代設定を効果的に伝える、という“記号”的な役割が重要なんじゃない。サムが本当に意図していることはそんなところにはないんです。

兵士たちの極めて重要な役割のひとつは、「目撃者」であるということ。

第一幕第一場、リアが「国家を3つに分け、娘たちの譲渡する」という、国家にとっても極めて重要な決定を、兵士たちはその現場にいて、実際に耳にしているわけです。もちろんこれだけでも、“軍事国家であること”の意味を十分成しているわけなんだけど、さらに兵士たちは、サイモンが語っているところの、「リアの決定的に重大な判断ミス」の瞬間にも立ち会っている。最も愛情をかけた娘であり、誰がみても最も公正で美しかったコーディリアの勘当、そしてコーディリアへの数々の非礼と侮辱、さらに忠臣でありリアの右腕でもあったケントの一方的な破門。独裁者による考えうる最も酷い独裁の瞬間を目撃した、証人たちとなってしまうのです。「決定的に重大な判断ミス」は密室で、内輪だけに広まるのではなく、かくもオープンな形で事実として晒される。このことによって、そしてこのことから派生する出来事によって、観客にとってリアは圧倒的に【孤独】な立場となる。舞台上により多くの兵士たちが居並び、この瞬間を共有するからこそ、私たち観客は「何故リアはそのような重大な判断を急ぎ、誤って振る舞ってしまったのか?」というミステリーに注目することになるわけです。

もうひとつ、兵士たちの重要な役割は、彼らがリアと共にまとまって移動するにつれて、少しずつリアのもとを離れていく、ということ。

最初30名近くいたのに、次に移動するときに10名ぐらいが本隊から離脱し別の方角へと歩いていく。やがて今度はその半分に、またその何分の一かになる、ということを繰り返していくんですね。やがてリアに同行するものは、道化、変装したケント、そして”哀れなトム”エドガーだけになってしまうのです。偉大な王だったはずのリアに従う兵士はもはやいない。こうして、王が所有していたものは少しずつ少しずつ王の身体から剥がされていくのです。王は軍服の脱ぎ、従う兵士たちが次から次へといなくなり、やがて“裸”の人間たちだけが残る。そのプロセスのヴィジュアル化に、兵士たちの姿は分かりやすい効果を生んでいるというわけです。


◯他のキャストと、ナラティブの違い◯

リア、そして道化以外の登場人物そしてそれらを演じた俳優たちに目を向けてみると、、、まず、グロスターを演じたスティーヴン・ボクサーが良かったですね。



特に、リアと赦しを分かち合う第四幕第六場、「グロスター」と名前を呼ばれた瞬間、あの膨大な、決してひとりでは支えきれないほどの感情が押し寄せる瞬間は、本当に素晴らしかった。

一方で、エドガーを演じたトム・ブルックは、ちょっと残念。個人的にはこの配役がプロダクション全体にとって少くなからぬ欠陥になってしまっているような気がして。休憩明けの第四幕から、エドガーが観客にとっての“語り部”になっていく。観客との接点がエドガーに移っていくわけだから、必然的にエドガーの重要性は増すわけです。なんだけど。。。例えば、第四幕第一場で、自分の父親が目をくり抜かれて血まみれになって歩く姿を見つけた瞬間、、、「語り部に過ぎる」と思ったなあ。つまり、彼のナラティブはどこか醒めた冷静なところにあって。父の痛ましい姿を見届けた当事者ではなかったんですよね。当事者であるナラティブと、語り部であることのナラティブは違うはずだし、その違いを行き来するなかで「やがて国を背負う」資格を持つ者として自覚が芽生え成長する、というのがエドガーという役の面白さですよね。芝居の最後の場面を見れば、もちろん彼が少し違う視点から物事を見ていた“語り部”であったことは明白なんだけど、、、なんだか興を削いだ感が否めない。もっと言えば、サム・メンデスにしてはとても珍しいキャスティング・ミスだったんじゃないかと。少なくとも僕自身にはそう思えてしまった。・・・まあ、人ぞれぞれイメージは違うので、あれで良かったという意見もあるでしょうが。



三姉妹はそれぞれ特徴的でバランスもよかったですが、特にリーガンのアンナ・マクスウェル・マーティンが魅力的。なんていうか、発語の文体、というか、、、セリフへの声の乗せ方が絶妙に心地良くて。彼女のリーガンは華やかで、若さゆえの残酷さ、慇懃無礼な無鉄砲さがあった。それは、オリヴィア・ヴィナルの演じる、若さが無垢さと純粋さを象徴するようなコーディリアとの対比になってたと思うんですよね。


◯“ソット・ヴォーチェ”の『リア王』◯

えらく長文になってしまいましたが、、、ようやくこれで最後。
総評といいますか。

この『リア王』に関する新聞批評のなかに、「家族的な感覚と宇宙的な規模感、壮大な叙情詩であることと同時に親密であることを溶解させた悲劇」と書かれたものがあり、おそらくこれは、サムがこのプロダクションを演出するにあたって意図していたことと合致するんじゃないかと思います。

"Staged in the vast Olivier, it's a powerfully searching account of the tragedy that fuses the familial and the cosmic, the epic and the intimate, and ponders every detail of the play with a fresh, imaginative rigour." (Paul Taylor, The Independent)

この、"the epic"でありながら”the intimate"である、ということって容易に両立できるものとは思えない。そこには詳細な戯曲の解釈と周到な流れの演出が必要になる。そしてこの『リア王』において、全編に渡る荒々しく激しい言葉の応酬のほんの隙間に、親密な瞬間を描き出すことに成功してる。それらの瞬間、舞台上の登場人物たちは涙に暮れる。私たち観客もまた、心を大きく揺さぶられる。もちろん、僕は一緒に泣いたわけですが。

フランス国の庇護下にあるコーディリア。無惨にも両目を抉り取られ絶望の縁でドーヴァーを彷徨うグロスター。姿を変えて献身的にリアに忠誠を誓って“道行き”の同行をするケント。病が進行し、もはや現実と幻覚の境目が分からなくなってしまったリアですが、ほんの一瞬幻覚の雲が晴れ、現実が太陽のように差し込むとき、最も愛す(べき)彼らと【赦し】を分かち合うのです。もちろん、このリストに第一幕第五場での道化とのやりとりを加えてもいい。

【赦し】を分かち合うどの瞬間も、リアは地べたに座っていて、彼らと同じ視線の高さか、逆に低い位置から見上げる形になる。そして、ちいさな声で、彼らに語りかける。そこには王と家臣、父親と娘といった、上下の関係は存在しない。ひとりの人間同士の、横にイーブンの関係で、音楽用語を使えば、まさに《ソット・ヴォーチェ(ひそやかな声で)》という言葉が的確。

今回の『リア王』の印象をひと言でいうなら、

僕にとっては、


「ソット・ヴォーチェで語られたリア王」


だった、

といいたい。


思わず目を背けたくなるほど残酷なシーンがあったり、雷鳴がけたたましく轟いたりもする。すさまじい緊張感/緊迫感(これは音響の力もある。『スカイフォール』の影響が一番顕著に出ているのは音響だったと思いますね)のなかでの激しく暴力的な言葉の応酬もある。また、エドマンドが語るところの「The younger rises when the old doth fall.」に相応しい、新旧世代の政略・策略の心理戦のドラマもある。それらはモノクロトーンで荒々しい"Epic"な世界背景を形成しているんですよね。

だからこそ、だからこそなんですよ、そのなかにふと添えられた"Intimate"でソット・ヴォーチェで描かれる部分が、むしろ際立つわけ。リアと愛すべき人々の場面だけでなく、第四幕以降の主軸のひとつとなっていく、グロスターと”トム”に扮したエドガーの旅路も、プロダクション全体の"Intimate"な側面の強調にひと役買っている。

そしてリアが死の瞬間を迎えた直後、ケントが言うセリフ、

「Vex not his ghost. O, let him pass」

が、なんと優しく響いたことか。
もちろんこのセリフもソット・ヴォーチェで語られます。

赦しを分かち合う場面では、いずれもリアが愛すべき人々に語りかけ、赦しを与えてきたんです。しかし、最後には、ケントがリアを赦すんですよ。このセリフはケントが言うけれど、彼は代弁者であって、その場に生き残ったすべての人間たちが、もちろんこの場を共有する私たち観客も一緒に、赦しを共有する。

シェイクスピアの悲劇に相応しく、舞台上には数多くの死が横たわっています。しかし、例えば『ハムレット』の最終場面で、凄惨な出来事を目にし行き場のなさを感じるのとは異なり、この『リア王』で感じたのは、人肌の温もりと切なさ、のようなものでした。リアと私たち観客は人間同士であり、どこかで分かち合えるものがある。

それは結局、



「O, let me not be mad, not mad」



と、リアが道化にソット・ヴォーチェで語ったあの言葉、
あの瞬間の感情なんですね。


『リア王』を観てからもう1ヶ月以上が経過しましたが、
いまでもよく思い出す場面、頭から離れない瞬間は、ここなんです。




近い将来、自分が自分でなくなってしまうことへの恐怖。




つまり、これは道化にだけじゃなく、私たち観客にも打ち明けられていたわけです。ソット・ヴォーチェで。

・・・でも、道化がまさにそうだったように、誰ひとり、何をすることも、実際にはできません。病はひとりでに進行していき、否が応にも私たちを蝕んでいく。私たちはみんな、そうなってしまったときにはもはや何もできないことを知っている。そして現実に目の前の舞台で、”偉大な王の記憶”は失われ、損なわれるのです。そのプロセスに立ち会って、私たちには、ただ漠然と、哀しみに暮れ、祈るしかありません。


この『リア王』は、私たちの話、でもある。


そう感じた『リア王』は今回が初めてでした。


サイモン・ラッセル・ビールの決定的な名演、サム・メンデスの凄まじい戯曲の読みと、人間的なドラマを浮かび上がらせる手腕の巧みさ。やはり彼らの舞台は、観客の期待を大きく超えてくれます。

今回も、素晴らしかった。
ロンドンまで観に行った甲斐、十分にありました。





・・・おしまい。