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ということで、ロンドン滞在の記録もこれでようやく最後になりました。。。


今回のロンドン滞在中に観たすべての公演の中で、断トツに素晴らしかったのが、The Bridge ProjectによるOLD VICでの公演、シェイクスピアの『冬物語』でした。サム・メンデスの演出。


まあ、サム・メンデスという演出家は、僕にとって神様みたいな存在ですからねぇ(笑)。これまで僕が観たサム・メンデス演出のストレートプレイの作品は全部で7本だけですが、実は2000年以降に彼が演出したストレートプレイは全部観てるんです。「彼が何かを演出するらしい」というニュースを聞いたら即、旅の計画を始める、みたいな。それを理由に2003年以降ロンドンは2回行ってるし、NYにも一度行きました(現地3泊・友人宅泊の超短期激安旅行でした)。個人的に海外旅行に行こうと思うとき、その動機は素敵な自然や観光地の訪問とかでは全然なくて、“サム・メンデス”という存在だったりするわけです。これもうおっかけみたいなもんですから。だから、冷静に考えてみれば、どんだけ僕が「素晴らしかった!」と言ってみたところで所詮愛しすぎてしまってますからね、フェアなジャッジではないかもしれないんですけどね。そのあたりの自覚はありますねぇ。


実際に今回のThe Bridge Projectロンドン公演の批評がイギリス各紙に出てますが、正直なところ、“絶賛”の評はそんなには出てません。5つ星勘定でいうと、5つっって1~2紙かなあ。4つのものはわりとあるけど、あとはだいたい3つ。平均すれば、「3.5」弱じゃないかしら。ほとんど各紙とも「The Bridge Project」として、つまり『桜の園』と『冬物語』の2公演を一緒に論じてて、どうしても「どっちかが良かった」みたいな比較論みたいになってしまってて、プロジェクト全体として「素晴らしいプロジェクトだが完璧なまでのものではない」というところに落ち着いてる感じですかね。2つを比べたときに『冬物語』の方が良かったという批評家の方が多いかな?


ということを踏まえまして、ここからおっかけファンの戯言になるんですけれども。


『冬物語』という作品はこれまで、シェイクスピアの作品の中でも、「あまり好きではない」作品のひとつでした。舞台では過去に2度観たことがありますが、いずれも「なんだかなあ・・・。」って印象。それらのプロダクションの出来が云々よりも、戯曲じたいについていけない感じで。シチリア王レオンティーズの傍若無人っぷりと、話の腰を折るような戯曲構造、そして「なんてそんなに都合よく赦されるのかしら?」みたいな唖然とする最後の展開。一般的に“後期ロマンス劇の傑作”と言われますが、ふむ、どうもピンと来ないなあと常々思っていたわけです。


ちなみに、あらすじはこんな感じ。

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シチリア王レオンティーズ(またはリオンティーズ)は、幼馴染のボヘミア王ポリクシニーズがシチリアに滞在した折、帰国を引き止める妻の王妃ハーマイオニの言動から、ふたりの仲を疑い始める。嫉妬心を抑えられないレオンティーズからポリクシニーズの殺害を命じられた家臣のカミローは、命令の不条理さゆえにポリクシニーズに計画を暴露。危険を感じたポリクシニーズはカミローの助けをかりてシチリアを出国、カミローもポリクシニーズに従う。ハーマイオニは身に覚えのないことと無実を訴えるが聞き入れられずに投獄される。レオンティーズはハーマイオニが獄中で生んだ女児をポリクシニーズの子だと思い込み、臣下アンディゴナスに他国の荒野に女児を捨ててくるよう命じる。アポロからの神託さえ無視し、ハーマイオニに対する裁判を行うが、心痛から王子マミリアスが急死、後を追うようにハーマイオニも亡くなり、レオンティーズはようやく自分の過ちに気がつき極度の公開の念に苛まれる。


16年後。ボヘミアで捨てられたレオンティーズの女児は羊飼いに拾われパーディタの名付けられ成長していた。「羊の毛刈り祭」の最中、パーディタはポリクシニーズの息子フロリゼルと結婚の承諾をする。しかし息子の相手を探るために変装して祭に紛れ込んでいたポリクシニーズは結婚を強く反対。二人は途方に暮れるが、故郷シチリアへの帰国を願うカミローの助言により、シチリアへと駆け落ちをする。16年前の出来事を懺悔して独身のままで生きてきたレオンティーズは二人を快く受け入れる。同じ頃、パーディタを育てた羊飼いもシリチアに到着し、彼の証言からパーディタがかつて獄中で生まれレオンティーズの命によって捨てられた王女であることが判明する。アンティゴナスの未亡人でハーマイオニの侍女を務めてもいたポーライナ(またはポーリーナ)の館の礼拝堂で、ハーマイオニの彫像を目にする一同。やがてその像が、動き始める。


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ロンドンで書いた日記でも触れたとおり、今回のThe Bridge Projectのプロダクションを観ながら、最後号泣し終演後しばらく席から立てず、翌日になっても思い出しただけで涙が止まらなくなるぐらい、僕の中に深い疵を残した素晴らしい公演でした。いままでの人生で観た「最高の舞台」か、「最高の舞台ベスト3の一角」か、そのどちらかになるでしょうね。今回初めて最後の“赦し”の意味も理解できたし、その展開にも納得ができました。赦されるべきだ、と。たぶんねえ、僕自身が歳をとったってのも大きいんだろうなあと思うんですよねぇ。数年前と比べたら絶対に寛大になってるもん、世界全体に対して。


サム・メンデスの演出の何が一番好きかといえば、メランコリーや斜陽の感覚、あるいは「過ぎ去るものへの想い」といった、“切なさ”って言葉で括られる感情をいつでも教えてくれること、といって良いだろうと思います。人間が感じるあらゆる感情のうち、“切なさ”が個人的に一番好きなんですよねえ、僕は。「“切なさ”ってどんなもの?」って言われたら、「サム・メンデスの演出作品を観なさい。」って答えたくなります。今回の『冬物語』はまさにドンピシャ、典型的な例ですね。


全体として、結構細かなカットや編集の作業をしてる感じでした。その場でテキストを追ってたわけではないのでどの程度だったかは不正確ですが、公演後にテキストを少し確認してみたら、セリフの順序が入れ替わってたりカットされたりしてるところがそこかしこに散見されました。“組み換え”を行うことで、本質的なドラマをうまく掬い取っていたという印象。


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幕があがって、レオンティーズの息子マミリアスがひとこと発して公演がスタートします。が、本来戯曲上では冒頭でマミリアスが喋る場面はありません。続く場面は通常の第1幕第2場。戯曲上は【宮殿の大広間】と書かれており、もてなしの晩餐が開かれていますが、今回のサムの演出ではどうやらこの場所はマミリアスの寝室。ベッドが置いてあり、マミリアスは途中でこのベッドに移って寝ますが、舞台にはしばらく残り続けます。


こうして最初から、マミリアスの存在がかなり意識されます。


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マミリアスと父・レオンティーズと、熊(!→これ重要ね)。


マミリアスが舞台上にい続ける。これがまず、演出として圧倒的に素晴らしい設定でした。つまりですね、その後レオンティーズが見せる嫉妬、妄想、不躾な態度、カミローへのポリクシニーズ殺害の指示などなど、これらすべて、大切な息子マミリアスがいる前で表明され言葉にされることになるわけです。このディバイスが一体何をもたらすか。


普通、第1幕第2場に見られるのは≪狂える権力者≫の自己中心的な嫉妬と怒りですね。本当に自分勝手な、他に責任の転嫁のしようのない嫉妬です。『オセロー』と似て非なるところは、オセローはイアーゴという外敵によってその嫉妬が植えつけられ「green eyed monster」として育まれたということ。すなわちオセローも被害者でもあるわけです。が、レオンティーズはそうではない。情状酌量の余地はありません。


確かに、私たち人間には所有に関する何らかの欲求が少なからずあります。男女間における嫉妬は“普遍的な感情”でもある。でも権力者というのは往々にして独善的で支配的であり、その支配欲や権力欲の強さを目の当たりにしたとき、私たちは私たちの“普遍的な”嫉妬だけではほとんど共感ができないわけです。ですが、サム・メンデスという天才は、レオンティーズを「権力者のただの我侭」というレッテルから救いました。そしてそれを体現するサイモン・ラッセル・ビールは、やはり本当に素晴らしい俳優です。


私たちは“サイモン・ラッセル・ビールの”レオンティーズが妻ハーマイオニとポリクシニーズの間に不義があるのではないかと疑ってしまうこと、嫉妬を抑えられないことを、何となく理解できるところがある。見た目的にね。サイモン=レオンティーズは妻よりも歳がかなり上で、妻はスタイルがよく背もレオンティーズより高く、チャーミングで頭がいい。レオンティーズは体型も丸く背も低く、見た目にかっこいいわけでもない。いかに実績として評判として優れた王であろうとも、年齢的にも身体的にもある種の“弱さ”を、自分自身を卑下してしまうようなマイナスな部分を抱えている、というイメージが私たち観客の中に共有されるのです。一方のポリクシニーズはスラっとしていかにもモテそうだからね、サイモン=レオンティーズが精神的にハンディを背負っていると想像することは容易。なんか、草食系とでもいいますかねえ(笑)。実際、最初の頃のレオンティーズの独白では、観客は「笑える」んです。「そりゃ、嫉妬しちゃうよね。」ぐらいの感じですね。まさかあんな出来事へと展開していくとは思いもしない(もちろん戯曲は読んでて展開を知っているとしても)。これたぶん、唐沢寿明がレオンティーズやっても笑えないんじゃないかしら。「なに言ってやがる、そんなこといいつつお前はそんなかっこいいじゃねえかっ」って客席の反感をかったりしないのかな。どうだったんだろう。


そして、もうひとつレオンティーズを権力者的にではなく“人間的に”見ることができた理由が、さっきのマミリアスの存在がそこにあること、なんですね。ハーマイオニの不貞をなじりポリクシニーズの殺害を命じるカミローとの場面、ベッドの中にいるマミリアスがそれらの言葉をすべて聞いているのかどうかは分かりません(一度レオンティーズの大声にがばっと身体を起こす瞬間がありましたが)。ただそれはあまり大きな問題ではありません。重要なことは、マミリアスが同じ空間の中にいてベッドで寝ている、それがディバイスとなって、レオンティーズに【理性と感情】の心理的な戦いを強いるということです。


レオンティーズは息子を愛しているのです。妻を愛するのと同様に。唯一無二の愛です。息子も父親を愛し尊敬し誇りに思っている。その息子の前でレオンティーズは妻の不貞を、つまりマミリアスの母親の不貞を、確かな証拠もなしに推測だけで、非難し汚い言葉で罵るわけです。自分の妻をこき下ろすだけではない、“彼の母親”をこき下ろす。必然的に理性はブレーキをかけようとする。息子がそこにいることで、勢いよろしく感情を爆発させることはできないのです。にもかかわらず、抑え難い巨大な疑念は彼を巣くい、感情は理性のブレーキを、無意識は意識を超えていく。無意識が選ぶ言葉は思いもかけず強く、レオンティーズ自身ですらそんな言葉を口にしていることに「あとから」驚いてるんじゃないか、と思えるほど。


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数日前に『ハムレット』について書いたブログに、こんなことを書きました。それを今再び思い出してみるわけですが、シェイクスピアの場合、表現にいたる流れの理想はおそらくこうなるのです。


【想いの知覚→言語化→行動化】


これが俳優によって体現されたとき、それらの言葉はセリフとして既に台本の中に書かれていて、それを私たちはよく知っているにもかかわらず、あたかもここで初めてその言葉が使われ、私たちはその言葉を今初めて聴いたかのように感じる。言葉は常に新鮮に生まれ変わり続けるのです。サイモン・ラッセル・ビールの芝居を観ていただくと、このプロセスがはっきりわかるはずです。“嫉妬”の強い感情・想いがあり、その想いがダイレクトに言語化される。言葉がその瞬間に生まれでる。それらひとつひとつに私たち観客は揺さぶられ、笑わされ、驚かされ、怖がらせられ、感動させられる。それも【理性と感情】【無意識と意識】といった対立軸の中で。そして表現がものすごく自在で多彩であること。


また、マミリアスがもたらす【理性】の存在によって、レオンティーズは心のどこかで自分の言動、行動、考え方が根本的に間違っていて、自分が行っていることが「すべて大きなあやまちなのではないか。このままで済むはずがない、何か悪いことが起きるのではないか」と予感しているんじゃないかっていう印象を受けるんですね。第3幕第2場まではレオンティーズが我を忘れて大変なことをしでかし、やがて愛する2人の死によってようやく自らのあやまちに気がつくというプロセスなのではなく、「一度始めたゲームは“負ける”ことが分かっていたとしても最後までやり続けなければならない」という、ある種の運命論みたいなものにすりかわる。これなら私たちでも共感できます。「それをしてはいけない、あとで後悔することになる」って頭は分かってるのに、身体は言うことを聞かない、どうしても止めることができない、ってことは生きていればしょっちゅう起こることですからね(汗)。私たちは「この権力者は私たちと同様に弱い存在なんだ」とレオンティーズの愚かさを嘲笑し、同時にどこかでシンパシーを感じ、やがてこの人物の痛みをそっくりそのまま共有することさえできるのです。


マミリアスを“利用”して【理性】を発動させ、あえて嫉妬の激情にブレーキをかけさせようとする。ブレーキをかけきれずに嫌悪の言葉が飛び出してくる。これもやはり、数日前のブログに書いたような、“縛る”って限定することによって抵抗と熱を生み、結果的に圧倒的な自由を獲得するためのプロセスです。マミリアスのいる場所でなければ、レオンティーズはより感情的に妻の不貞を呪い告発することになったでしょう。これは仕掛けたサムもすごいがそれに応えたサイモンもすごい。このあたりのふたりの“勝負”はほんとスリリング。


この後もシチリアの場面ではマミリアスが随時重要な役割として、戯曲に描かれている以上に、舞台に登場します。第1幕第2場でのレオンティーズの話をおそらく直接耳にしているマミリアスは、第2幕第1場で母親ハーマイオニの他女性たちに囲まれたシーンで最初悪態をつくのですが、これは明らかにその前の場での“父親”の言葉が頭にあるからに違いない。母親を含めた“女性”の不貞への疑い。でも彼は子供であり、それがどういうことなのかまったく整理がつかないのです。でも母親ハーマイオニがいつもと変わらず優しく接してくれていることに気がつき、いつしかガードを解き、いつものように元気な様子で「得意の話」を始めようとする。その直後、父親レオンティーズらが押し寄せてきて、前場同様強い言葉で母親を非難するのを耳にしてしまう(ト書きの指示よりも遅いタイミングで彼は舞台から去ります)。その後母親は投獄されてしまうわけです。


第2幕第3場では、マミリアスは本来話題の中で触れられるだけで舞台上に登場しないのですが、サムはマミリアスを舞台上に登場させます。しかも車椅子に乗って、「がっくりとうなだれ、小さな胸を痛めて思いに沈み、それをほかならぬわが身の恥とでも感じたのだろう、元気も、食欲も、安眠もなくしたまま、すっかりやつれてしまった」状態で。ここでのマミリアスの姿と『ハムレット』におけるオフィーリアの姿が重なります。純粋なる魂であるがゆえに、誰よりも尊敬し愛しているが同じように愛する自分の母親の不貞を疑い牢獄に入れた父親と、いつもと変わらぬ愛情と優しさで接してくれているはずなのに父親から疑われ罪を問われる母親。幼い彼にはどちらが正しいのか判断ができない。彼は父親も母親も愛しているのです。2つのベクトルに強烈に引き裂かれたことで、マミリアスは精神に異常を来たしてしまう。ポーライナが登場するまでの間、レオンティーズは息子と同じ空間を共有します。が、ここでも彼は独白でハーマイオニへの怒りを私たちに訴える。病んでしまった、愛すべき息子がいる前で。そしてこれが、親子の最後の時間となります。


裁判の場面、「当然の帰結」としてマミリアス死亡のニュースがもたらされるとき、私たち観客は純粋なる存在であるがゆえに苦しみ抜いて死したマミリアスへの想いを馳せることになる。この短時間の間に、彼の葛藤と病みのプロセスを知ってしまっているのです。このことじたいが非常に珍しい。普通のプロダクションではあまりないことだと思うんですね、マミリアスが病んでいく変遷は言葉として聞かされるだけだから。でもこのプロダクションで私たちは彼の苦悩も直接見ている。当然そこにはシンパシーを感じないわけにはいかない。もちろん、素晴らしい女性であり妻であり母親であったハーマイオニにも同じような心痛を感じる。でも、愛すべきふたりが亡くなったと耳にするとき、私たちはこれらの悲劇をもたらしたレオンティーズに対して、強い気持ちで「罪を償うがよい!」と断罪することも、何故かできないのです。冷静に考えたら、これだって魔法の領域ですよ。もちろん「レオンティーズ、あんたが悪い!」とは思うんですよ、でも、彼に対する純粋な怒りが込上げてくるわけではない。私たちが感じるのは行き場のない悲しみ。それだけがこの場所を覆う。どこまでも深く。


親と子の物語ってことで考えると、サム・メンデスの映画監督としての2作目『ロード・トゥ・パーディション』を思い出します。血縁関係としての親と息子だけではなく、マフィア社会における親と息子、ある意味では血縁よりも“絆”が深くタイトかもしれない関係のドラマを描いた佳作です。また、サム自身に子供ができたことも、『冬物語』から強固な親子の物語を掬い上げることになった理由なんだろうなあと想像しますね。『桜の園』も家族の話ですが、どちらかというと母娘が緩やかにバラバラになっていくわけだから、ちょっと志向は違っていたんでしょうね。


ここまではどうしてもサイモン・ラッセル・ビールの圧倒的な演技力に注目してしまいがちですが、レベッカ・ホールのハーマイオニも相当素晴らしかった。芯の強さ、頭の回転の速さ、女性的なイノセンス、容姿、理想的なハーマイオニだった。舞台では今回初めてみましたが、『桜の園』でのワーリャも良かったですしね。レベッカ・ホールは『フロスト×ニクソン』『それでも恋するバルセロナ』などにもかなりいい役で出てて、映画界でも注目株って感じですね(そして知らなかったんだけど、あのピーター・ホールと元奥さんのオペラ歌手マリア・ユーイングの娘なんですね。。。サラブレッド中のサラブレッドだ!)。あとシニード・キューザックのポーライナも良かったなあ。彼女は『桜の園』ではラネーフスカヤを演じてたんですが、個人的にはちょっとイメージが違う気がしたこともあって、飛び抜けて素晴らしかったとは言い難いかなってところだったんです。逆にこのポーライナでは気品があって愛嬌があって親しみやすくて、慈愛に満ちて、登場するところ目が離せない感じでした。


技術的なことで言うと、裁判の場面でのあの神託のペン、どういう仕掛けだったんでしょうか。。。(笑) あれはちょっとすごかった!それから第1幕第2場でのカーペットの使い方も巧妙で。カーペットって、サムの芝居では最重要アイテムのひとつですが、あれによってハーマイオニとポリクシニーズの親密さ(の妄想)が増す。もちろん舞台をおおうロウソクの灯りもそのための役に立つ。目に見える小道具はすべて情報になるだけでなく、生き物として息を殺して生息してて、やがて誰かの想いに巣くうのです。


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↑↑↑妄想を促すカーペットとロウソク、と絶賛妄想嫉妬中のレオンティーズ。


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さて。話はシチリアからボヘミアへと飛びます。


シチリアの場面の終わりがあまりにも重く切実だったために、第3幕第3場の熊の登場と羊飼いと道化の会話ですーっと息が抜けてホッとしましたね。今回が人生で3プロダクション目の『冬物語』でしたが、3回目にして初めて、ここで「???」って感じにならずにドラマトゥルグ上必要な展開なんだなあってことが分かった気がします。熊の話は、ほんとは全然笑えないんだけどさ。。。


そして第4幕第1場での「時」の登場。この「時」の役を誰がどのように務めるかは『冬物語』の大きな見所ではありますよね。これがまたねえ、、、絶妙でした。ここはキモでもあるので、これからご覧になる方もいるかもしれないし、ネタバレは避けておきましょう、うん。


第4幕はシチリアの出来事から16年後。一転して太陽燦々・原色の色鮮やかなボヘミア。なんと言っても「羊の毛刈り祭」とその準備の場面ですから。音楽と踊りも入って賑やか。あの、祭で披露されたダーティー・ダンシング、いや違うな、下ネタ踊り(笑)。いやー、まじ最高でした。大爆笑。アンコールしてほしかったなあ!あれだけでももう一回みたいですわ。なんちゅう振付なんだろうほんと。でも真面目な話、舞台がすべての<喜怒哀楽>を包括するものだとしたら、ここで私たちは極端な<喜/楽>に振り切られたわけだね。この感覚はすごく重要。あとからこの開放された感覚が最後の一点に向けてグッと締まっていくわけですからね、プロダクションとしては成功ですよ。しかも“みんな大好き!エロネタ”だからなあ、インパクトも強いし(笑)。


で、ボヘミアの場面で中心になってくるのがイーサン・ホークが演じたオートリカスです。ほとんど狂言回しのような役割なんだけど、“道化”と呼ばれる役は別にいて、でも彼は羊飼いの息子であまり道化らしい道化ではない。オートリカスはかつては貴族だったのに、いまはゴロツキをやってる。そのあたりの倒錯した感じが面白いんだな。【シチリア:ボヘミア】の対照もそうだけど、シェイクスピアは晩年の作品においては、より様々で複雑な≪世界の異相≫を舞台上にのせるわけです。誰もが尊敬する王様は大罪を犯し、かつて貴族だったやつはどうしようもない詐欺師になり、羊飼いの子供は道化と呼ばれる。どっちがどっちかなんて分からない、何がどうなるかなんて分からない。いつあなたがいまあなたの目の前にある世界と違う世界に生きることになるか、コインの表裏をひっくり返すようなものだ、と。


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イーサン・ホークはですねえ、極めて異質でした。いやー、アメリカ人俳優は他に何人も参加してるのに、イーサンの英語だけがいまいちわかんなかったんだよなあ。。。強烈なアメリカン発音とアクセントで。ただそのあたりも含めた“異質さ”はこの『冬物語』の中でかなり活かされていて、おかげで新しい発見もあったりしました。ギターを持って歌うとほとんどボブ・ディランみたいな雰囲気でしたけどね(笑)、≪世界の異相≫ということで考えてみると、オートリカスは登場人物の中でただ一人、この世界に馴染んでいない、所属するべき世界がない、と言えるんだね。彼はひとり気ままに、自由自在に生きている。誰かを罠にかけては財布を盗み、気ままに歌い、斜に構えた言葉を私たちに投げかける。しかし物語が進行し、他の登場人物たちが少しずつ収まるべきところに収まっていく中で、オートリカスだけがどこにも属せず取り残されていく。第5幕第2場で彼はその寂しさすらのぞかせます。シチリアの紳士たちがこの1時間に起きたことを興奮しながら(もちろん喜びに溢れて)話す中、オートリカスは徐々に何も言えずただ聞き入ってるだけの役に成り下がっていく。紳士たちは「喜びに加わろうではないか」と行ってしまう。オートリカスは着いていくことも許されない。そんなオートリカスの存在じたいが、世界の有り様でもあるわけです。すべての人々がそれぞれの世界に巧く馴染んで属しているわけではないのです。彼の本音がどこにあるのかは私たちの想像の中でしか分かりませんが、少なくとも彼を通して、今この瞬間もどの世界にも属せず孤独な人々がいる、彼らはどこかに向けて手を伸ばしているのかもしれない、と想いを馳せてみることができる。ここでもまたサム・メンデスらしい“メランコリー”が働いているわけですね。


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そして第5幕、舞台は再びシチリアへ。16年後の“赦し”。


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献花。年老いたレオンティーズ。ポーライナの忠告。到着したフロリゼルへの最初の言葉に滲むもの。パーディタをその目にした瞬間。声にならない沈黙。「カミロー」の名を聞いた瞬間の表情。礼拝堂への歩み。ハーマイオニの彫像。彫像を囲む椅子がその場にいる人数よりも【1つ】分多いこと。パーディタが思わずもらした声。その場で誕生したカップルの苦笑い。どの感情にも属さない、しかしすべての感情がその場にあるときのひとの姿。そして伸ばして差し出した手。


どの瞬間もあまりにも美しくて、本当に今でも、思い出そうとしただけで涙が滲むなあ。


どうしたって無茶で荒唐無稽な展開です。でも初めて、本当に初めて最後の“赦し”を受け入れることができたのです。赦されるべきだと思った。どうしてか?


レオンティーズだけが苦しみ、心痛し、懺悔し、赦しを請うていたわけではなかったからです。


ポリクニーズ、カミロー、ポーライナ、ここにはいないシチリアの家臣たち。ハーマイオニ。そしてマミリアス。それぞれがそれぞれなりに、あの16年前の出来事によって苦しみ、心痛し、懺悔し、赦しを請うてきたんですね。数名の大切なひとたちは既に亡くなりました。それは受け入れざるを得ない。その上で、皆が“赦し”を求めている。“赦し”はレオンティーズのためだけにあるのではない。ここにいる皆のためにあるんです(マミリアスもいますよ、ひとつだけ空白の椅子が教えてくれるように)。


それをサム・メンデスという天才が演出としてはっきりと示した“一瞬”がありました。まったくもって予想もしない形で。だって戯曲にはそんなこと書かれてないんだから。レオンティーズは既に舞台上にはいません。そこにいたのはポーライナとパーディタ。その一瞬に言葉は必要なく、ただ自然発生的にふっと立ち昇り、すべてを繋いだんです。16年を。これから先の未来を。この一瞬の繋ぎ目が、『冬物語』の本質のすべてだったんじゃないかとすら思えます。ここもネタバレしないように何が起きたか詳しくは書きませんが、ここから僕は涙が止まらなくなったわけです。「美しさ」は痛みを伴うときに初めて成立するのです。サム・メンデスが作り出したこの一瞬に、すべての人々の16年間に渡る痛みが凝縮されたんですよ。これを「美しい」と言わずなんと言えばいいのか。そして、もうすぐその痛みが報われるかもしれないということを、この瞬間、この世界でたった一人だけが知っている。それは、レオンティーズではないのです。




レオンティーズは本当に赦されたのか?


このプロダクションでサムは答えを提示してはいません。




「・・・どう思いますか?」




すぐれたプロダクションがいつもそう教えてくれるように、答えはいつだって私たち観客の中にだけあるのです。手にする鍵は、ひとぞれぞれで違う。でもきっとそのどれもが間違いじゃない。





僕個人はね。祈りました。






伸ばして差し出したその手が、いつか、何か大切で確かなものを掴むときが、来ますように。

できることならば、すぐにでも。


と。