(前回の関連記事は「超・個人主義者 」 です。)
悟りを究めた人間
前回の記事では仙道研究家 高藤聡一郎氏の著書から、
「修行者が現世でさまよっている霊的存在に出会った場合の
対処法」
を紹介しました。
この文章中の
(さまよっている霊的存在)を
(難病で苦しんでいる人)
(心の病で苦しんでいる人)
(霊的障害で苦しんでいる人)
に置き換えて読み直すと、
「気功師(=自分を犠牲にして人を救おうとする)」
に対して、
「気功家(=自身の気のレベルアップが一番)」
がどのような立ち位置にいるかがよくわかります。
気功修行と病気治療の問題は非常に関連があるから、
軽く扱うわけにはいかない。
かといってあまり深入りするのも賛成できない。
自分の意識下に存在するトラウマや霊的因縁(カルマ)
でさえでも、神秘行が進んで浮かび上がってくるとひどい
目にあうことがあるくらいだから、
ましてや難病患者や、重い心の病で苦しんでいる人、
霊的障害で波動がおかしくなった人たちと、気功治療や
ヒーリングで波動が繋がったら大変なことになる。
それだけ重い苦しみを抱えている以上、どんな救われがたい
部分をもっているか見当がつかないからだ。
自分がまだ救われていないのに、さらに余分なものまで
しょい込む必要はない。
とにかく、神秘行を行うものにとって必要なのは、他人が発する
邪気や思念波と、修行の過程で自身の内部から浮き上がってくる
マイナスを識別する能力だけである。
それさえ身についていれば、あとは邪気を発している人間がいたら、
第三者的にやりすごすほうが賢明だ。
そうしないと、ただの霊能者やヒーラー(気功師)になり下がり、
一生こうしたものの救済に気をすりへらさなければならなくなる。
ここは一番、同情心いやお節介心を捨ててさらに高い境地に
邁進することだ。
こうして読み直してみると、なかなかキツイ文章になります。
要するに、
苦しんでいる人間は見捨てて、自分が良くなる事だけを
考えていればいいんだ。
という内容です。
わたしが思うに、高藤氏には神秘行修行者に対する
ある種の侮蔑感があったのでしょう。
例えば、著書「仙人になる法」には、
仙人を含む隠者などは、社会からドロップアウトした
屍人間である。
今流にいえばヒッピーである。
仏僧とて同じだ。
釈迦が偉いというが、社会的に見れば国を捨て妻子を
捨てた無責任なルンペン野郎にすぎない。
と書いています。
※この記事を読んでいる若い人のために注釈しますと、
ヒッピー→1960年代に「ラブ&ピース」とか言ってドラッグやってた
ダウナー系の連中。
生き残りの一部はアカになって原発・普天間で
集会している。
大陸・半島寄りが多い。
ルンペン→浮浪者
となります。
確かに高藤氏の言葉は一面の真理を突いているように感じます。
神秘行を実践している人を見ていると世の中との関わりを避けようと
するタイプが多いです。
今から10年以上前でしょうか。
あるTV番組で、定職に就こうとせずにフリーターをしている若者を
集めた討論会がありました。
その番組の進行が大竹まことで、途中からフリーター達への
説教タイムになっていました。
(局側もそれを狙って彼を起用したのだと思います。)
大竹まことが「お前らは逃げてんだよ!」と言うと、
フリーターの若者達が怒って、
「そんなことはない!」
「俺は毎朝、10kmジョギングしてます。」
「週に3回、空手の道場で鍛えています。」
「自分は○○の資格試験を勉強しているんです。」
などと口々に言い返していました。
すると大竹が、
「違うんだよ。俺が言ってるのはそういう事じゃないんだよ!」
ともどかしそうに言っていました。
若者たちは大竹の言葉が全く理解できないようでしたが、
おそらく「お前らは逃げてんだよ!」と言っていた内容は
こういうことだと思います。
今月はキャンペーンでニューモデル車を3台売らなければ
ならないのに、自分だけまだ1台も売れていない。
このままでは週末、本部の統括部長が来た時にみんなの前で
罵倒されるな。
と困っているセールスマン。
店の売り上げが落ちていて、本部からパートさんの1人を
クビにするように命令が来た。
しかし、あのパートさんは子供が来年進学を控えていて、
学費を稼ぐために必死になっている。
どうやって話せばいいんだろう・・・。
と悩んでいるスーパーの店長。
来月からまた電気料金が上がる。
円安のせいで工場で作っている部品の原料代も上がっている。
もう利益が出ない。
でも、ここで工場を閉めたら家族や従業員が路頭に迷う。
もう銀行からは借り入れはできないし、闇金に手を出すしか
ないのか?
と迷っている従業員5人の町工場の経営者。
大竹まことはおそらく、フリーターの若者たちが上記のような
仕事の重圧や職場の人間関係から生じる苦しみ、自分以外の
人間を養っていく責任から逃げていると言いたかったのでしょう。
神秘行修行者にも、こういった現実生活から生じる苦悩や責任から
逃れることが動機になっている人間が結構います。
前回の記事で書いた
①現実世界からの逃避願望
のタイプです。
まぁ、動機についてはその人の自由だと思うのですが、
わたしの経験で問題が生じるのは、神秘行の修行を
何か高尚なものだと思い込んでいるタイプです。
よく、山に篭って、断食して、滝に打たれて、瞑想三昧で
サーマディーに到達して悟りを開くことが修行だと考えて
いる人がいますが、
わたしから見れば、それはただ単に、極限下の状況で
変性意識状態になって、普段とは違う知覚意識を体験
しただけの話です。
同じ状況に置かれれば誰だってサーマディーになります。
高藤氏流に言えば、それは修行生活というよりも単なる
逃避生活です。
それでは本当の修行とは何か?
それは上司や部下、取引先との人間関係で生じる軋轢に
耐えながらも必死で我慢して働いて、奥さんや子供を養う
生活です。
しかもその養っている奥さんや、子供、義父母、自分の両親が
またまたいろいろ問題を引き起こします。
そういった現実の問題に対処しながらも、自分の中心を見失わずに
冷静に対処して周囲の人たちをより良い方向に導いている男が
いたとしたら、彼こそ真の悟りを究めた人間です。
逆に、人里離れた山奥に篭ってやっと意識を無に保っているような
人間を都会の会社に連れてきて、煩雑な事務仕事や、営業の仕事を
やらせたらパニックになるでしょう。
それこそ、現実で役に立たないルンペン野郎です。
わたし自身、サイキック覚醒や丹道周天などと言って神秘行を行い
変わった経験をしたりもするのですが、正直なところそれほど大した
価値は感じていません。
神秘行は面白いとは思いますが、そんな人間的価値が高まるとか
いうような大した代物じゃないと考えています。
わたしの中の価値観としては、
「英語を学習してネイティブと話せるようになった。」
「プログラミングを学んで以前よりもPCを使う楽しみが増えた。」
「ジムに通って体系的にトレーニングを始めたら、体を動かすのが
楽しくなった。」
と同じような、自分の中の世界観を広げたり、世の中を楽しめるように
なるための道具の1つに過ぎません。
同時に神秘行は、行を進めることが現実からの逃避に繋がる
危険性を孕んでいます。
おそらく高藤氏も、神秘行に対して客観的なスタンスをとりながら、
神秘行をして、自分が釈迦のように偉くなった気分になって
いる人間がいるけれど、釈迦の生き方も社会的に見ればただの
現実逃避に過ぎない。
神秘行修行者の本質は、現実から逃避して神秘の世界に
逃げようとしている、自分のことだけを考えている利己的な
人間だ。
そのことを自覚した上で、人を救うとか何とかキレイ事を言わないで、
自分自身を救うことだけを考えて修行していればいいんだ。
という意味で、霊的障害への対処法を書いたのでしょう。
これはわたしが前回の記事で書いた
わたしが今まで見てきた経験では神秘行をしている人の
9割以上は自分第一の気功家タイプです。
という見方と相通じるところがあります。
高藤氏は神秘行をリアリストの立場から冷徹に捉えていました。
それに対して、わたしの元師匠の神秘行に対する見方は
甘かったです。
前述したような悟りを目指して修行する生き方が、即、立派な人間に
なる事だと単純に信じこんでいるところがありました。
以前、ヒマラヤの山奥で修行を積んで瞑想三昧の日々を送っている
行者について書かれたサイトを見たことがあります。
(受講者から「この人どう思いますか?」と質問されました。)
その記事によると、彼は毎日、瞑想をしながら世界平和の祈りを込めた
波動で世界を浄化しているそうで、悟りを究めた聖者だと紹介されて
いました。
元師匠ならその意見に同意したと思います。
ただ、わたしから見れば、その人物は山奥にこもって、ただ世界平和を
祈っているだけの現実から腰の引けた全く役に立たない人間です。
それなのに、自分が悟りを開いて、世の中を救っている聖者になった
ようなナルシズムに浸っている。
この人は悟りを究めたのではなくて、自己愛を完全に究めたのだな。
確かにスゴイ人物だ。
とほとほと感心したのを憶えています。
※次回の記事更新日は9月10日になります。

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