いよいよ2015年も押し迫って参りました。
今朝は冷え込んで、漸く暮れを実感しています。
不定期な更新を読んで頂いている皆様、ありがとうございました。
今年も色々ありましたが、引き続き、宜しくお願いします。

さて・・・

「超訳ニーチェの言葉」という本を読んだことがある。

ニーチェが書いた様々な哲学書の中から
短い言葉を抜き出して並べた本。

言ってしまえば・・・それだけの本である。

だが、驚くほど売れた。

ニーチェ自身が書いた本よりも売れた。

それは・・・

ニーチェを読まない人が
「超訳ニーチェの言葉」を読んだからである。

なにしろ・・・私も読んだのだから(^_^;)・・・


だが・・・

不思議だとは思わないだろうか。

ニーチェを読まない人が、何故この本を読むのか。

「もしドラ」でも、同じ現象は起こっている。

ドラッカーを読まない人が・・・「もしドラ」を買って読んだ。

これは・・・

いったい、どういうことなのだろう・・・

流行っている本だから読んでみた。

そういう人もたくさんいると思う。

だが、その流行は・・・

どういうロジックで生まれたのだろう???

ニーチェやドラッカーを愛読する人ではない人が、
最初に、この本を手にした理由は何か。

それは・・・

やっぱり、知的欲求なのだと思う。

つまり・・・

人は、潜在的に・・・

ニーチェやドラッカーを読みたがっているのだ。

だが・・・読まない。

それは・・・読んでもどうせ解らないと思っているから。

そして実際、
読んでみても解らないと思う。


では・・・

「超訳ニーチェの言葉」は
解りやすいニーチェ本なのだろうか。

半分は、その通りだと思う。

だが、半分は間違っている。

なぜならば、
ニーチェが言っていることは
そもそも、解り難いことだからだ。

答えのないものに、答えを見出そうとする。

その思考のプロセス自体が、哲学である。

だから・・・

「解る」なんていうことはあり得ない。

そもそも・・・

「解らそう」と思って書かれていないのだから。


では「超訳ニーチェ」とは何か。


そして・・・なぜ、こんなにも売れたのか。

それは・・・

ひと言で言うならば、マーケットのニーズに応えた本。

だから、売れたのだと思う。

「ニーチェの思考に触れたい」という欲求ではなく・・・

「ニーチェを読みたい」という欲求。

つまり・・・

「ニーチェを読んだ自分」になりたいのである。


「超訳ニーチェの言葉」を読んだ人を
ニーチェを読んだ人と呼んでいいものかどうか・・・

それは、難しいところだと思う。

だが・・・そんなことは問題ではない。

ニーチェがどんな人か・・・

どういうことを書いたのか・・・

それを全く知らないという状態と、
ニーチェの言葉をいくつか知っている状態。

ニーチェって、
こんなこと言ってたよねと言える状態は全然違う。

ニーチェを深く理解していなくてもいい。

そこまでは求めていない。

ニーチェを知っている。

ニーチェの言葉を知っている。

それが・・・

この本を読む多くの人のゴールなのだと思う。


だが・・・勘違いしてはいけない。

彼らは別に、この本を読むことによって
「俺はニーチェを知っている」と・・・誰かに自慢したいわけではない。

満足させたいのは、自分の中の知的向上心なのだ。

ニーチェと
ちょっと・・・触れ合うことによる満足。

それは・・・

例えて言うなら・・・

カルティエのスカーフを持つことによる、
カルティエとのつながりや・・・

iPhoneを持つことによる、
スティーブ・ジョブズとのつながり・・・に似ていると思う。

それは、もちろん本当のつながりではない。

iPhoneを持ったからといって、ジョブズを理解できるわけではない。

だが、このつながり感は、とても大事だと思う。

「自分はニーチェとちょっと触れ合った」と・・・思える人と
「ニーチェなんて興味ない」と思っている人。

この差は、もの凄く大きい。

自分の中の判断軸、
つまり・・・価値観を育てていくか、いかないか。

音痴でも音楽は聴ける。

不器用でも、ゴッホの絵を見に行くことは出来る。

本物のアートや哲学を完全に理解することは難しいし・・・

そんな必要はないと思う。

大事なのは・・・

ちょっと触れ合うこと。

触れ合うことによって・・・

自分の中の価値観が、ちょっとだけ変化すること。

それこそが、
人生の大きな節目なのだと思う。