阿里山鉄道の現況 39年前の鉄道に比べて、新しくなっていますね。

阿里山的姑娘という台湾を代表する民謡。
いまでもうろ覚えだけれど、何とか歌える。花連の民族舞踊のショーで始めて聞いた。べつにこれといって感激する歌でもない。
でもこの歌との出会いは感傷的。
台中で一泊した私は、その日、日月譚へ観光。日月譚は中国の洞定湖に似ていると(ほんとかどうか不明)蒋介石が愛した場所で、彼の別荘があるとのこと。
台中から日月譚へのバスの途中、50歳くらいの中国人と同席。隣に座っている変な若者と一瞥。当時中国の若者と日本人は簡単に見分けられた。理由は髪型である。中国人の髪型はどちらかというと当時の言葉で言えば、あんちゃんカット。我々はというと左右に分けていたのかな。覚えていない。当時我々の世代では長髪が流行。神田川の時代である。しかし、台湾へ長髪で入国しようものなら、即逮捕される。したがって、私もおとなしい髪型にした記憶があります。
いずれにしろくだんの紳士、「日本からかね」と流暢な日本語。びっくりしてそうですと答える。それから、戦前の日本の話から戦後の日本の話と2時間ぐらい楽しい会話。聞くと台中の陸軍学の校長とのこと。非常にえらい方だったようです。
日月譚にあと30分くらいのところで、突然バスが停車。憲兵隊がずかずかと乗り込む。乗客から身分証明書を取り上げ、旅行許可を持っていないものは、すべて降ろされました。私は日本人これはやばいかなと思っていたら、私のところへ憲兵隊が来ると、隣の校長先生が私の身元保証人だと答えてくれ、私はお咎めなしで、そのまま日月譚へ。
聞けば、蒋介石かあるいは身内が日月譚へ滞在するときは、不審者を日月譚に入れないようにするとのこと。
当時の台湾の世情は決して穏やかで安定していたわけではなく、台湾人と大陸からの中国人の間は決して友好的ではなかったようです。
日月譚のことはというと、ほとんど印象がないと言うのが本音です。台北から花連、タロコとダイナミックな景観になれた私にとって、日月譚は箱庭的であまり印象がなかったようです。
さて、阿里山的姑娘。
次の日、列車で嘉義へ。それから阿里山鉄道に乗り込む。阿里山鉄道は嘉義から阿里山頂上まで当時6時間くらいかけて、登る登山列車でした。ところどころスイッチバックで登り、亜熱帯樹林から針葉樹林までの植生が楽しめる鉄道です。
その列車で6名くらいの嘉義の学生と同席。当時の客車は長距離列車のように二人がけの席ではなく、山手線のような座席でした。6名の学生対面同士に座って、ワイワイお話を始めましたから、さしずめ若鶏の鶏小屋。そして床一面、竜眼の皮の山。その中の一人隣の私に気がつき、親しげに声をかけてきました。勿論中国語。日本人と答えると、阿里山で珍獣発見のごとく、好奇心丸出しで、質問の山。英語と筆談。
そのうち、途中駅で、若い民族衣装を着た女性が乗り込む。高砂族のひとである。エキゾチックな顔立ちで美しかったことだけは覚えています。そして私の前に座る。
そのうち、うつむき、そしてしくしく泣き出しました。隣の若者たちびっくりして、どうしたのかと問いただし、みんなで慰め始めました。私は何がなにやら判らないまま、しばらくみていました。隣の若者が、中国なまりのきてれつな英語で話してくれた内容から判断すると、今恋人と分かれたところで、これから国へ換えるとのことでした。途中の駅で下車し、数時間かけて家に帰るのだとのことでした。そのうち、みんなで慰めるために歌を歌い始めました。仕方なく、私も日本の歌を歌いました。そのとき歌っていた歌は「友よ」であり、これは我々年代では有名なべ平連の歌(ベトナム戦争に対する反戦歌)で、台湾政府に判れば即留置場という歌でした。ささやかな反抗期でありました。とはいえ、みんなでできる限り明るく歌いました。そのとき、何度も繰り返して歌った歌が“阿里山的姑娘”でした。やがて途中の彼女が降りる駅に到着。涙の乾いた高砂族の彼女、寂しげな横顔を残して去ってゆきました。
阿里山的姑娘
阿里山の娘は阿里山の流れる水のように美しく、阿里山の若者は山のように勇敢である
という出だしに、二人が幸せになるという民謡。この歌を聴くたびに、嘉義の若者と高砂族の女性を思い出します。
やがて、列車は青息吐息で頂上駅に着きました。
そこは亜寒帯の景色、松や杉の木に囲まれた世界。