小野道好を「小野政次」にした時点で善人設定は決まっていた?!(大河ドラマ考264直虎18) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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今週(8月20日本放送)の大河ドラマ「おんな城主 直虎」は「第33回 嫌われ政次の一生」。高橋「一生」(いっせい)氏演じる小野政次終焉の回です。
 

(1)そもそも、小野但馬守は「道好」?「政次」?

「史実」としては、井伊家を乗っ取って城主となった奸臣。諱(本名)は「道好」とされてきました。

ところが、その出所というのは・・・

徳川・井伊・近藤(江戸時代の井伊谷の支配者)

という、「勝利者側」の史料に基づくもの。

※小野但馬反逆の件は小野家文書でも否定はされていないそうですが、ここでは諱の件に限定する事に致します。

先月、小野家(政次の弟の子孫)に伝わる系図を見せて頂いたのですが、Wikipedia[(政次の名は)末裔に伝わる系譜史料に見られる]にも示されている通り、確かに但馬の諱は「政次」なっておりました。

 

その系図でも示されていたのですが、遠州小野家の通字は「正(政)」。「古」が通字の系統も見られるのですが、室町期・江戸期でもおおよそ「政」「正」の字が続きます。

ところが・・・

但馬とその父だけが「道好(政次)」「道高(政直)」と「政」を使わない名前が伝えられて来ました。要は、この二代だけ「特殊」なのです。

 

(2)では、「道好」は疑わしい?

道好の「道」は小野「道」風、「好」は小野「好」古から取ったと考えられます。いずれも小野家の先祖とされる古代の歴史的有名人であり、「創作」としてその様な名前をでっち上げる事は歴史を齧った者ならば誰にでも可能だった・・・とも考えられるのです。

 

(3)なぜ政次では都合が悪い?

井伊家の次の当主が直「政」だからです。中興の祖と時代を同じくした「罪人」の政「次」がもっていた「政」は井伊にとって忌まわしい字の筈。だから、「政」次は有り得ない・・・という勝者側の理屈です。

一方、弟の小野玄番の系統が引き続き井伊の家老であった(但馬による反乱?のお咎めが直系以外の近親には及ばなかった)事からも分かる様に小野政次は「泥を被った」だけで謀反人とは井伊家中では認識されていなかった(だから、直「政」も有り得た)という(勝者側で無い)主張も十分に一考に値します。

 

(4)ただ一つ言える事は・・・

新史料が出てこない限り、「道好」「政次」の決着はつかないでしょう。

ただ一つ言える事は、小野但馬守を「政次」に決めた時点で、今まで言われて来た様な「奸臣」道好を覆して功臣「政次」に・・・という事は決まっていたのだろうという事です。そう、次郎・直親・政次の3人を幼馴染として描いた当初から・・・。