織田を包囲!「御所様」義昭と「上様」信長、どちらが真の棟梁か(大河ドラマ考178,官兵衛10) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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「虚構による主役補正」「スルー」「期待外し」そして「嬉しい誤算」(大河ドラマ考177,官兵衛⑨) に続く大河ドラマ考です。


今週の軍師官兵衛(2014年3月9日放送)は、「第10回:毛利襲来」。

「毛利三首領」の密談シーンは足利義昭と小早川隆景(三首領の一人)とのシーンに変わりました。

俗に言う、足利義昭を将軍に据えた「鞆幕府」(天正4,1576年2月)です。


そして、その小早川が同年には官兵衛達に牙を(英賀合戦;翌年説有り)。

官兵衛が周囲に助けを求めようとしても、織田に与した筈の別所は動きません。

そこで、小寺は官兵衛に愚痴を言うばかり・・・


これは後に別所・小寺が織田を裏切る事を示唆したシーンなのでしょうが、

織田方が毛利勢の石山本願寺への補給を許してしまった事や、本願寺のために信長自身も負傷するという「天王寺の戦い(5月)を盛り込んだあたりを鑑みれば、今回のテーマを「織田の苦戦」としたかった事は間違いないでしょう。


(但し、天王寺の戦いは織田方の勝利にはなっています。)


(1)京を追われても、将軍・足利義昭は過去の人では無かった!?

歴史を知る「後世の人」は、


義昭が信長によって京を追われて室町幕府が滅亡

→政権は織田信長へ


・・・という構図で間違いないと感じるでしょう。


しかし、「この時点では」本当に信長は「天下人(または武家の棟梁)」と「思われて」いたのでしょうか?


(2)それでは、「英賀合戦(天正4,1576年)」時点での信長・義昭の比較です。

足利義昭

・従三位

征夷大将軍

左近衛中将


織田信長

・従三位

権大納言

右近衛大将(天正三年より)


信長の近衛「大将」、義昭の近衛「中将」を見る限りでは、義昭の地位を信長が超えたのは近衛大将に任じられた天正3(1575)年11月・・・だというのは妥当な様にも思えますが(Wikipedia)、右近衛大将は義昭が辞さない「征夷大将軍」の代用だったとも考えられるのです。

(宜しければ、拙稿

藤原信頼が信西に希望した「近衛大将」は清盛だって欲しかった!?(大河ドラマ考No.84 清盛㉕)

なども御参照下さい。)


(3)確かに・・・

この時点では両者とも武家の棟梁を自称出来そうです。

義昭は「死に体」ではなく、まだまだ「織田」か「(足利・)毛利」かで揺れる余地が有ったという訳ですね。