今週の軍師官兵衛(2014年3月9日放送)は、「第10回:毛利襲来」。
「毛利三首領」の密談シーンは足利義昭と小早川隆景(三首領の一人)とのシーンに変わりました。
俗に言う、足利義昭を将軍に据えた「鞆幕府」(天正4,1576年2月)です。
そして、その小早川が同年には官兵衛達に牙を(英賀合戦;翌年説有り)。
官兵衛が周囲に助けを求めようとしても、織田に与した筈の別所は動きません。
そこで、小寺は官兵衛に愚痴を言うばかり・・・
これは後に別所・小寺が織田を裏切る事を示唆したシーンなのでしょうが、
織田方が毛利勢の石山本願寺への補給を許してしまった事や、本願寺のために信長自身も負傷するという「天王寺の戦い(5月)を盛り込んだあたりを鑑みれば、今回のテーマを「織田の苦戦」としたかった事は間違いないでしょう。
(但し、天王寺の戦いは織田方の勝利にはなっています。)
(1)京を追われても、将軍・足利義昭は過去の人では無かった!?
歴史を知る「後世の人」は、
義昭が信長によって京を追われて室町幕府が滅亡
→政権は織田信長へ
・・・という構図で間違いないと感じるでしょう。
しかし、「この時点では」本当に信長は「天下人(または武家の棟梁)」と「思われて」いたのでしょうか?
(2)それでは、「英賀合戦(天正4,1576年)」時点での信長・義昭の比較です。
足利義昭
・従三位
征夷大将軍
左近衛中将
織田信長
・従三位
権大納言
右近衛大将(天正三年より)
信長の近衛「大将」、義昭の近衛「中将」を見る限りでは、義昭の地位を信長が超えたのは近衛大将に任じられた天正3(1575)年11月・・・だというのは妥当な様にも思えますが(Wikipedia)、右近衛大将は義昭が辞さない「征夷大将軍」の代用だったとも考えられるのです。
(宜しければ、拙稿
藤原信頼が信西に希望した「近衛大将」は清盛だって欲しかった!?(大河ドラマ考No.84 清盛㉕)
なども御参照下さい。)
(3)確かに・・・
この時点では両者とも武家の棟梁を自称出来そうです。
義昭は「死に体」ではなく、まだまだ「織田」か「(足利・)毛利」かで揺れる余地が有ったという訳ですね。