【暮らしの中の仏教語】自業自得(じごうじとく) | 吹田・関大前☆タロットリーディング@静心庵◆叶 淨華◆           

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おはようございます
吹田・関大前 古民家サロン「静心庵(せいしんあん)」主宰
・タロットセッション 僧侶の叶淨華です♡




普段生活の中で何気なく使っている言葉
これって、大いに仏教から来ている言葉が多いのです。

このシリーズでは、間違えて使っている仏教本来の言葉を知るために
綴っていこうかと思います。


第一回は「自業自得」その1

これは、よく使いますよね!

「あ~あ、私はどうしていつもこうなの?ダメだな~ 失敗ばかりして」
「自業自得でしょ!
あなたが自分で蒔いた種。その結果は自分で刈り取るしかないでしょ!」
こんな会話よく使われますね

しかし、種とは何なのか?
いつ巻いたのか?
しかもこの自分が意図して蒔いたなど少しも思えない。

だから「自業自得でしょ!」と言われても納得できない。
また、その一言で、今の自分が決められてしまっているようで、暗くなってしまいます。

しかし、自業自得とはもともと人を暗くしてしまう言葉なのでしょうか?


自業は自らの業。
自得は、その結果は自分が受け取ること。
もちろん仏教語です。

ところで、「業(ごう)」の言語は「カルマ」で、行為を意味します。

私たちは、
身を動かし(身業)
言葉を発し(口業)
あれこれと考えて(意業)
日常を生きています。
つまり生きることすべてが行為によって成立しているのです。
今の自分はこれまでの体験の集積と言えるでしょう。

したがって、
「ああ~自分が悪いことをしたからこんなことになってしまったのだ」と
自分の不始末は結局自分のこれまでの行いのせいだと決め込んで
受け取ってしまいます。

しかし、しかし、わが存在が晴れません。
やはり暗くなってしまいます。
自分のこれまでの業に縛られているように思われるからです。

しかし、人間の根本的な願いはその業の束縛からの自由
決め込まれてしまう自分からの自由です。

仏教の歴史的な課題もそこにあったのです。


さて、長くなるので、続きは次の回へ


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本文と関係ない画像ですが、
見てると癒されてキュン死しそう~
ハート②


一応、仏教のお話なので、仏像も!

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