これがもし、小説の中の1ページなら、もっとせきららに、こころの奥底を文字にできるのだろうか。う~ん、案外、かわらないのかな、とも、おもう。朝、目が覚めて、なんとなくつらい夢をみていたような気がして、意識がさめてきた刹那、「このまま、待ちぼうけだったどうする?」 そんな、意地悪な声が聞こえたときは、やっぱり、そんな風に、ほんの少しでも心配している自分自身のこころ(のよわさ)も含めて、やるせない気持ちに包まれる。もちろん、すぐあとには、「いいもんね。どんなだって、へっちゃらだもんね。」。なあんて、せのびせのびのやせがまんもいいところの、から元気で、悪い夢のつづきをあたまのなかから追い払うのだ。


どこかの映画だか、ドラマだかで、大失恋をした主人公を、幼馴染が励ますのだが、おんなは言うのだ。「あんな、世界中どこさがしたって、これいじょうかっこいいと思える人がいない。そんなさいこうのひとに出会えるのに33年かかったのよ。また、すぐ見つかるなんて、簡単に言わないで。もし、見つかるとしても、もういちど33年かかかるってことよ。それはもうないのと同じじゃない」って。ちょっと、おかしく、でも、ほんとうに、そのとおりだとも感心して聞いたのを覚えている。もとより、どんな生物でもオスのほうが寿命が長く、人間だって例外ではなく(ただ、どういうわけか、メスを引退してからがおそろしく長いだけで。。。)、だから、おんなのほうが、どこかで、時間的切迫を感じやすいようにはできているのかもしれない。


けんこうほうしさんが、いえは、なつをむねとすべし、たしか、そういう主旨のことを書いておられたが、まっこと、そのとおりだとつくづくおもう。障子があって、襖があって、そして、夏は簾に蚊帳、風鈴、糸瓜の蔓が日よけになり、高温多湿の風土であればこそ生まれた風情であり、設えなんだとしみじみおもう。にんげんも自然の一部であるから、木の温もりのある空間で育ったこどもと、木や植物のまったくない、コンクリートだけの空間で育ったこどもと。情緒というか、感性というか、そんな目には見えない、何かがやっぱり少しは違ってくる気がしてならない。話変わるが。文豪のそうせきさんが、その昔、船のデッキで飛ばされた麦藁帽子の逸話にちなんで、帽子を飛ばすイベントがあると聞いた。そうか。後代にまで作品を読み継がれるひとになると、そんなささやかな、ハプニングさえも、立派なイベントになるんだなぁ。


風情、佇まい、風格、雰囲気。どれも、恐らく、一朝一夕にはできはしない。だからこそ、何ものにもまして、そのたいせつさ、その意義はおおきくなるのだろう。むろん、もとより、わかるひとにしかわからない、ということも含めて。3歩歩けば、かっこわるいひとは、すぐわかる。これは、わたしが勝手におもっている法則だけど。ともあれ。これは、多分、女性にもあてはまる。ゆとり、余裕、やさしさ、慈しみ。それらをもちあわれているひとは、遠くを歩いていてもどこかしら、ちがうもの。どんなに愛想だけよくしても、歩き方を見れば、そのひとの機嫌がわかる。ひとの振り見て~、ではないが、自分のそれは離れてチェックすることができないだけに、日々のきもちの持ちようがおおきく作用するのだろうなと、つくづく思う。ときどき、あ~、このひとは、愛が溢れているな、そう見えるひとを見かけると、素敵だな、そうおもう。あんまり、口煩くしゃべりつづけるひとには、なかなかいないようだ。無論、愛だけでは生きられない、というのも、ひとつの道理かもしれぬが、そもそも、愛というものは、ほかのものと同列に語ることのできないものである以上、その意味において、愛さえあれば生きられる。これもまた、真実ではないか。わたしは、そうおもう。