あさはさっきのような

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とてもくるしくふさぎこんだような状態でした。去年の夏に4ヶ月間苦しんだ不眠の症状が再び、今月に入ったとたんに現れて、こころがたえられなくなってしまいました。思えば、この数年、いささか浪費気味になってしまう元気な期間と、こころが沈みがちな期間が交互にやってきていたのは確かです。ふだんの暮らしが変わるようなことはなかったのですが、それでも、振り返ってみると、そのやまいなのかもと自分でも思います。

 

不眠に効くという、3年前に発売されたそのお薬がからだから抜けるという、飲んでから20時間がすぎたとたん、けろりと氣分が軽くなりました。深く眠らせないというそのお薬は、きっかり2時間おきにストーリー豊かな夢をみて起きてしまいます。そしてまた眠ってはいるのですが、また夢、そして起きるの繰り返しで。5時になると、何時に寝たとしてももう寝られなくなります。まったく寝られなかったという苦しみはないものの、眠ったという充足もなく、いちにちの大半がおもく、前よりむしろふさいでいるような感じになりました。

 

いろいろな説明を読むと、このやまいは治ったとおもってもお薬はのむべしとありますね。でも。いくらかの作家の方にも同じようなことがともありました。規則正しい生活というものが、とっても苦手なわたしです。どんなお薬をのんで、どんな暮らしをしたらいいものかと、思案します。自分らしさを否定することがやまいをなおすことだとしたら、それはとても続かないですし。うまくつきあって、わたしの得意なことがなくなってしまわないような、そんなかたちをなんとか見つけられないかともおもうのですが...。

 

血圧がもともと低めで、日中にお薬のせいで血圧が通常よりも下がってしまうと、動けなくなるうえに、くよくよと否定的思考の中に入ってしまいます。日中の血圧を下げないで、眠りたいときだけ、飲んだらいいそんな都合のいいお薬はありますか?血圧がさがっていないとき、それほどひどいこころの状態になってはいないような気もしたり...。

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ながいとんねる

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多くの文豪の方も同じやまいでしたといわれても…ひとりでいると…きもちがくるしくなることばや想いが次々とやってきて…つらいです

わたしは病気なのだということを受け入れることが…つらくて…でもなんとか良くなりたいと思えています…

環境をかえたら、よくなるともおもえるのですが…いまは自分のちからでは、環境をかえることもかなわず…

おくすりのたすけをもらう以外に…たすけをもとめてしまいますが…ひとりの時間に考えが落ち着かなくて…どうしたらいいのかつらいばかりです


きもちを落ち着けて…穏やかに時のなかにいられたら…環境をかえられたら治るのに…との想いが…交互にわたしを苦しくしています…

こんなくるしいつれづれをどこかで書かせてもらえませんか?ささやかでも~書かせてもらえたら~なんとかいきていけそうな気がします…


いまは、きもちを落ち着かせられたら…いいのですが…おくすりだけでなく~もっとたくさんお話をしてもらえたら…と願ってしまいます…

なんとかたすかりたいよ~と思っています…たすけをもとめてしまいます…
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itsukasonouti...

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ことばが降ってくるとき...いつもこんな風に、いったいいつまでこのおもたいおもたい雲が心を覆っているのだろうと~しびれた胸のひだが...もういきしたくないかもなどと、わずかばかりの愚痴をはきだしてしまいだしたときにに、そして、じいいいいっとみつめていまかいまかとおもってるところではいっこうにならないこーるなのに、ふとした瞬間、真昼のまどろみみたいに、ふっとふいにきがぬけて、つかのままったくかんけいのない別のことをふと考えていたらば、あんなにまっていたコール音がいとも簡単に目の前でなっている...たとえていうなら、たとえばそんなふうに、不意に訪れるんです。

 

目の前にあるのは、まったく同じ時間のはずなのに、こころなのかあたまなのか、その両方なのか、ともあれ、時のながれかたが、こころの向き方が、ころっと移行して、深い深い海底から、気が付くと、のんびり揺れてる海洋の帆先だったり、小高い丘陵の穏やかに流れる川面のそばだったり、ともあれ、視界があらわれ、こころもあらわれなのか、ともあれ、つまりは、ひとことでいうと、またいきできている、というより、いきすることがつらくなくなっている...そんな時間が、ときどきやってくるんです。ねむれないというのから、ねむれないのではなく、ねないでいるのがさほどつらくない、おきてこのままうかんでくることばや、映像のなかで、時のままにただそこにいるのが...まぁいいか、そうおもえる時間がやってきます。

 

ラウンドしてみないことには、その日のぼーるがはてどんなきどうを描いてくれるのかがだれにもわからないみたいに、こうして書いていながら、どんな風にそれがつづいていくのかまえもってはさっぱりわからない...。だから、おもしろいのですが、それがときどき、海の底にいてしまうときには、みえないことがたまらないこわさになってしまうのですね。なんでもいいから見えるところにいきたい、そうもがくけれども、もがくほどに土の中にうまっていくみたいにまるで自分で自分をくるしめてるだけじゃんとおもえる思考回路を飽きもせず繰り返しているんですね。

 

いつかそのうちのそのでもうちでもいいから、あとどれらいかがわかればどれだけいいだろうとさけびたくなったりしているんですね。わからないからいきられるんです...。そう言えるのは、こうして雲が去って、視界ができた(ように感じられる)ときになってはじめて、あれ、どうしてあんなにおちこんでいたのかしらとおもうのですね。時の流れについて、おもえばおもうほど、いくつものものがたりがきっとやまのようにあるのだろうなと、ほんとにしみじみおもいます。いつかどこかで...すこしはなれたさきのほうでも、そんな風におもったり描いたりしていることが、わずかでも形となる時間をもてたらいいですね。ほんのささやかでも...。

ところで。それはそうと、なにはともあれ、お元気ですか?

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zannkannomimaidesu

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残寒お見舞い申し上げます。というのを。あんまり目にしないのはどうしてでしょうかね。ゴロがピンとしないから?でしょうかねぇ。ともあれ。寒さにもいろいろあって。凛とした乾いた空気が、清貧の潔さのようでもあるようで、どこかしら爽やかで静として清らかであるような、そんな感じに思えることが、とてもありがたくもあるような。そうおもえるときもあったりします。それもこれも、果てしなく続くように思える時間が、じつはあっという間の束の間、刹那だからなのでしょうかね。ともあれ。時間というものの偉大さやありがたさを深く実感するのは、かなしいけれど、時間の有限さにうちのめされそうなときが突然やってきたりするときなのかもしれませんね。
 
時間は、ときどき、永遠に続くように思えるもので。いまのなかでいまをいるようにしていると、いまが永遠にある ただそれだけ。なんて、ほんとうにそのようにおもってしまうところがあるのですけれども。100歳になったときにはて、どのような風に世界がみえるのでしょうかと思う反面。こどものころに。いまの歳になるなんて、遠い宇宙のはてにいくよりも遥かかなたのことのようにおもえて。考えることさえやめていたのをおもと。はてさて。時間についておもっても仕方ないのかもと思えてみたり。いえしかし。そうではないのだと。いまがあるからだからこそとおもえてみたり。はてさて。白髪を抜き始めると半日たっても同じ光景が鏡の中にひろがっていたりして。はてさて。どうしたものでしょうねぇと。おもったりもしています。
 
念願の油絵というものをはじめて描きました。ついこのまえ。なかなかタイミングが合わなくてひと月以上も待たされたような。待たせていたような。そんなところで。それでもやっぱりちょっぴりちこくしていったのですけれど。手が勝手に動いてました。パレットと絵具と筆先と、そしてキャンバスと。お手本の絵のコピーとを見ながら。手が勝手に動くままに、色を重ねて。残った絵具をそのまま全部使い切ろうと、自然にできる組み合わせで、それとなくそこここに色の違いを作りつつ。そんなこんなで一時間もするかしないで。小さなそのちょうどいい大きさのキャンバスはほとんどどれかの色でうめられていて...。おやおや。ああいい色だなぁ。これ誰描いたのだろう?手で、自分の手で、何かをつくる。手を動かす。無心になる。時間が止まる。そのことをかけがえがないとき。そういうののひとつなのでしょうかね。

ichibannsamuikisetudesuga...

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赤と黒の、そのすっぽり手に入る大きさと、皮のかんしょくがとってもいいと思いました。予定を書き込まないと忘れるような予定のないせいかつに恵まれてからもうずいぶんと時間が流れました。このままのんびりがいいなと本心からおもいます。たぬきさんは未来指向型ではなく過去回想型なのだそうです。そのせいでしょうか。てちょうは、なんというか、ときどき無理のない範囲で、時間のことを思い出させてくれるたいせつなものの一つなのでしょう。ほんらいの機能性をいかさないまま、でもそばにあってくれるととても安心。そんなものなのかもしれません。

 

センとオブうーまんの、フェラーリをぶっ飛ばすシーン(乱暴なことばを使ってごめんなさいm--m),それから、ホテルのフロアーでダンスを踊るシーン、作品の中で流れるやさしいけれどmessageがとてもしっかりしている音楽だけでなく、ほかにも、こころのなかのちょっとよどんだ部分を、やさしく無理のない範囲で、なぐさめてくれるそんなシーンがとても胸にしみます。美味しすぎるフルコースは、そうそういつもあってもいいというのものでもない...というのみたいに、いつもいつでもBGM代わりに気軽に流すというわけにもいかないのが、けってんでしょうか。

 

ずっとずっとむかしのあるところでのことです。とあるまちの街角で。これからもうすぐ出る最終のフライトで今週の勉強を終えるお友達の足を遅らせ、あと少しのところでmissingにしてしまいました。さいわい、その日のうちに故郷まで戻る手段はのこっていました。それにしてもです。ショックでした。手帳のない暮らしに慣れた森のかめさんに連絡をしたばっかりに、予定が大きく狂ってしまった。くるわせてしまった。おかねのこともさることながら、それいじょうに。電車の駅から猛ダッシュしたのにin veinだったとき。ごめんなさいではかえって傷つけてしまいそうな。そんなかなしみといたみがありました。

 

もっとも森のかめさんは。そのひとへのこころばかりのなにかを探せる時間がもてることを。これももしかしたら、つづきのはじまり?そんなことをこっそりきいてみたくなったりもして。たいせつなお友達への贈り物をみつけたとき。さがせるとき。そんな時間がいちばん、ホッとできるうれしい時間。なのかもしれません。ともあれ。ともあれ。それでもほんの少しだけ元気になれてるわたしのことをとてもよろこんでくれたお友達の、あったかい気持ちにこころがとってもあったかくなりました。なにげないひとことに救われる。そんなことがときどきあります。

akemasita

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賀状届きました。ほんとにありがとうございます。とりわけ去年はどんなに力をもらえたことでしょう。12月に出すべき挨拶文も作れぬままだったでしたのに...。感謝です。先月のいまごろは、あああことしもだめかぁという感じであきらめかけていましたが、やっとどうにか絵の具を出して、混ぜて、練って、筆に垂らして、そして描く、というのができるのがうれしいと思え。るまでになってくれました。なにぶん、エンジンのかかるのが遅っくていけませんね。

 

いろいろ構図を考えたり、案を練ったり、あたらしい描き方を考えたり...と、しているうちに、年が明けてしまいました。このままでは、絵ができるころには、年末になってしまいそう...でしたので...思案の挙げ句、おやっと不意にでてきた!?このまえの酉年!?の、版木を使いました。すみません。お陰で、目の所の掘ってある数字は5です。ごめんなさい。ということで、きのうやっと宛名書きまで進みました。なんとか、松の内には届けられるのではないかと...思っています。

 

どうやら丸4年、絵の具を使っていなかったようです。お陰で、絵の具をまんべんなく版木にのせられるころころローラーのスポンジが......。去年のかきもち?干し柿?みたいになっていました。やむなくキッチン用スポンジで...。代用できました。筆で、いえ、文字の方です、表の。筆で書けたらなぁといつも思います。てとあたまとこころが同時に動かすことができるのが、万年筆がボールペンが精一杯...なものですから。やっぱり今度も青いペンになりました。

 

手紙はもちろん、グリーティングカードでもそうですが。そこに書くことができるのが、ひと言であればあるほど、片手間に、てきとうになんてとてもできるはずもありませず。取りかかるまでに時間ばかりがかかってしまいます。かといって、時間ばかりかければいいかといったら、さにあらず。考えすぎても、うまく、手と心が動かない。ということで、年賀状をかけることが嬉しくて、のんびりのんびりしていたら。あれまぁ、もう三が日が過ぎようとしてします。すみません。すぐに取りかかります。m--m。

misokanoivu

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それはそうと。母がよくつかったことばでした。ところで。そういえば。ときに。ねえねえ。そのどれでもなく、いつもつかうのはそれはそうと。話の接ぎ穂に、なにげなくした質問が。わたしの話したいスイッチに思いがけず、触れてしまったときなど。わたしが、一所懸命に息継ぎもなしで。あれがね、こうでね、そしてね。だからね。と。話の中身の、いざここからが面白いところ。と。いうところになると。よく母が繰り出してきた、決めぜりふのようでもありました。今からおもうと。

 

わたしにしたら。あああああ。このことを言いたくてこんなにいっぱい説明したのに。いざ、これからってときに。それはそうと。あああああ。と、おもったものでした。母からしたら。もういいよ。そんなつもりで聞いたのでなくて。だったのかもしれないし。わたしの話が長すぎて、もうつかれたよ。だったのか。つまりは、もういいよ。それより、わたしの話を聞いて。の合図だったのかしらん。今からおもうと。わかることが。あとからあとから、あるような。そんな気がします。

 

それはそうと。わたし、さいごにしめ飾りを飾ったのははて、いつだったのだろう。とにかくひとのめ。(そんなの自分が決めてる人はこうみてる、にすぎないのに)。それを気にする母でしたから。それが、いろんなところで。気にしなくなってた。もともと気にしない(つもりの)わたしであるから。なおさら。そのへんかにきづかなかったのでしょうねぇ。わらをもらってきて自分で編むのがいいですね。代わりに絵でも描いて貼っておくとか。面白いのがいいですねぇ。せっかくですから。父はことしで百歳。そうです。気がつくと、もう、明治生まれの方はほとんどいらっしゃらない。ということなのですねぇ。まだ間に合う、戦争の記録を少しでも。残していきたい。そんなことをときどき思います。

 

(そういえば。武器をさらばも、時雨の記も、それから男たちの旅路も。かなしみのない時間はないのはそうですが。やっぱり、めぐり逢えたらや、ユーガットメールみたいに。まだまだ続きがある。そう思えるのがいいですねぇ。寒い季節があるからひとは。心豊かに、やさしい機微に。気付くことができるよになるのでしょうかしら...。 2016)

seiyanoseika

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あるときバンクの機械の前で~、ぴぃ、ぴぃ、ぴぃ、として、うぃ~んと扉がひらいたら、なんとそこから、おおきなお金が。しかも5枚も!わあああ。やった。わたし宝くじに当たった??。そんなはずない。いや、しかし、その刹那は確かに、一瞬、時間がとまって。わあぁすごい。そう思ったのです。きっと何かほかのことを考えていたのでしょうね。そんなことは(というのは、慣れきった動作をしているとき、完全に気持ちが別のことを考えていて、目の前は目に映ってるはずなのに全く見えていない、そんなことのことですが...)よくあることで...。なあんだ。そりゃ機械は正直に反応しますよね。言われた通りに。そんな大きなおかねを持って歩いても仕方ないので、再び戻して、必要だっ小さい方の5枚に改めてできてきもらいました。

 

たまりにたまったいちねんぶんのレシートを整理していたら、ふとそんなことが思い出されて、レシートの束そのままに書き始めたというわけです。粋なリズムのジャズが流れるニューヨークが舞台の少々やんちゃを連想させる、カタカタ3文字とオブ、ニューヨーク。そんなタイトルです。同じ時間なのに、どうしてこうも違うのでしょうねぇと。ほんとにしんそこしみじみ、これでもかというほど、じわじわとおもいます。いえ、時間のことです。まったりゆっくり、せのびしてううう~~んとうなって、もいちど横になって~。それがなんともありがたいと、おもえるときと。ありあまる時間におしつぶされそうで、もう息するのも忘れそうで、時間がたたなくて苦しくて、つらくて。いっそこれならなどといろいろ精一杯考える事しかできないときと。不思議です。

 

年の瀬は、あれもせねばこれもせねばと、しなければ行けないことに慌ただしいのがしんどいよ~とおもいながらも、どこか、忙しく出来ること、動き回れること、スケジュールがいっぱいいっぱいでいることが、どこかうれしくもあるそんなときのことなのでしょうね。なにも、いま掃除しなくても~。あしたはくるし、としもあけるのに~。そう、こっそり思いながらも、締め切りがあるからこそ、がんばれる充実を、今しか出来ない、そう、あとでやっても意味が無い、そう思えることこそ大事なことなの、そう言い聞かせたり、誰かにいったり、そんなこんなで時間がすぎてゆきますね。

 

はて。やってする後悔と、やらずにするそれとではどっちがどっちと。いつもおもいます。若い頃、ずっとそりゃそっちに決まってるじゃんとおもっていましたが。おへそ曲がりになったのか。はたまた、あきらめるのが得意になったのか。たぶん、どっちも後悔するんです。どっちにしても、必ずする。あああ、あのときああしていたら。ああしていなかったら。と。たぶん、なにかを決めるそのポイントは、だれにもわからなくて、たぶん本人にも。なにもしないほうを選んだにしても、すでにしないと選択してるのだから、岐路にたったときにもう選んでるんです!といったら、まぁ言い過ぎでしょうか。ともあれ。岐路はいきなり現れたり、知らぬ間に大きな好機を逃していたり...。岐路のかずだけ、あじわいがとも深まるのだとしたら。じかんというものが、やっぱりこのうえなく、しあわせできちょうなものなのですねぇ。よき聖夜をm--m。

yuzuwoukabete

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海の向こうで暮らすようになってもう随分たちます。その土地その土地に、風と海と匂いと、そして土があるのですねぇ。生きるってなんでしょねぇ。そう、気持ちの良い景色の前に立って、すがすがしい思いをできる日ばかりではないですねぇ。人生は。それでも、やめないでいるだけの価値がある。そうおもえる瞬間も、いくつもありますねぇ。

 

とはいえ。塞いだときは、ほんに言葉通り、なにをみてもどこをあるいても。もうなにもないようにおもえるものですねぇ。時が来たら、ふわふわあ~っと、また、あれなんだっけ?という日がまた来るのもわかっているのに。動けないときはとにかく動けない。簡単にあ~すればいいこ~すればいい、と言われたりなどするものなら、塞ぎの扉はますます重くなるばかり。言ってる方には、そんなことは露も伝わってないから、むしろ善意であるがゆえに、励まさなきゃーとなるのでしょうねぇ。

 

かといって。ああそうですか。仕方ないねぇと冷たく突き放されたら、うれしいのかというと。やはりそうではない。がんばれがんばれといわれるよりも遙かに楽ではあるけれども、なんとも言えない甲斐のなさのこころがさらに冷たくなったり。ほな、どないせ~ちゅうねん?と言われそうですが。ともあれ。ふとしたとき、なにかをわかりきったひとやあきらめきったひとの「それでいいんだよ~。ゆっくりの~んびりいったらいいんだよ~」。たとえば。そんな言葉が、突然、不意に、わけもなく、こころに、じわじわじわ~っとしみこんで。あとからあとから、効いてくる。そんな言葉がやってくることがあるんですねぇ。不思議です。

 

ずう~っと、お便りしたいしたいと思いながら、できずにいます。書きたい書きたいと思いながら、今書いたら、このしんどい空気を封筒につめて、送ってしまうのではないかしら。今書いたら、調子のいいことばかりひとりよがりに書いてしまうのではないだろか。そんなこんなを思っているうち、時間は随分たちました。いま、ほんの少しやわらかくホッとできる空気のなかにいます。それがとってもありがたくて。これまで出来ずにいたことをどんどんやろう、というのと、せっかくの貴重な時間なのだからのんびりしなきゃ、の呑気な気持ちがありまして。ともあれ。やっと少しだけ息ができそうな、そんな時間にとっても感謝しています。

kotonohawo

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大事にしなさいとずっと言われて、そしていま。

ほんに、ことばというのは、それをくちでもふででもだした途端。実現と決して無縁でない気がするものですから。

たいせつとおもってることほど、なかなかことばになど出来ぬので。いつもあとから、あ~あのときどうしてすぐに素直にことばにしなかったのだろ。

そう、こころでさけんでみたり。するのですけど。でも、想ってることはきっと通じる。そうも思えて、まぁいいか。そのうちなんとかなるだろと。

のんきにしてたら。そんなもんいわなわからん。というのも言われぬままに時の過ぎるの早いですねぇ。ほんに。

 

いったいどれくらいのことばをかさねてきたでせうと。ふりかえってもそうおもいます。

ほんのときどき。もどかしいほどに行き違い、はなれ、ぶつかり、からまわり...。そんなこんなの沈黙でした。

どんなことにも時間はかかるものですね。あわてない、あわてない、そのうち、あれれとならぬよう ときどき、ほんとに大丈夫?そうおもってこころがちぢれ、嗚呼、やっぱりもう...とおもったことも数知れず。とはいえ、いつでもみちのとちゅう。いまがあるからあしたがくる...。

あしただけでもいけないが、いまだけでも線路はのびぬし。そんなこんなのかっとうが。いったいどれほどあったでせう。

 

これもひとつのぞーんというのでしょうか。ひたすらにことばがふってくるときがあるんです。つぎからつぎと。いろんな景色やことばたちが、つぎからつぎとわいてきて。それも、いろんなことがあれもこれも。全部書きとめるのも、かなりたいへん。やっとこのごろ、慣れてきて。それほどばたばたせずにいられて。ふ~。とはいえ。自然にまかせていると。自分でもへぇ~とおもえることばがいくつもあって。ともあれ。やっと少し。書いていけそな漢字がきてます。

(やぶからぼうにすみませんm--m。長らくの無沙汰と、そしていろいろ。わたし得意の早とちりやそんなこんなでいっぱい心配おかけしました。少しずつ。できるはんいで書いていこうと。

そんな風におもっていますm--m)。