たとえば。手には6番と8番。でも、状況は7番が一番ふさわしいといっているとする。さて、そのときどうするか。もとより、結果オウライを望んでの番手思案ではなく、きちんと打ちたい球を打ち分けられる技量があるとして。無論、ほかを待たせて、カートまで行き、欲しかった7番を手に戻るというのも、悪くはない。別に、急ぐ必要はないかもしれない。ただ、このことに秘められていることは、そういうことではないのだ。試されている、といってもいい。一事が万事とまではいわないが、道具をそろえるのが当たり前というひとには、なかなかわかりづらいかもしれない。ここで、問われているのは、冒険できるか、挑戦できるか。せっかくの機会を生かせるか。そういう風にとらえる、またとないチャンスでもある。そうみることも、実はできるのだ。確かに、8番で、7番の打ちやすい距離を、止まるボールで打つというのは少々難易度が高い。しかし、ありきたりのルートだけにこだわらず、臨機応変な攻め方を見つけることが出来れば、恐らく、6番で7番で望んでいたボールを狙うことは充分にできる。このことは、たとえば。セカンドがグリーンを外れたとき。ただ、がっかりして、あるいはくさって、あるいは番手選びを後悔して、もっとひどいと、ほかのなにかのせいにして。そうするのではなくて、やった、アプローチするチャンスに恵まれた。よ~し。そう、思えるか。それとも似ている。余談だが、そもそもパーオンしたときでないと、パーをとれる確立がかなり低いひとと、乗ろうがのるまいが、ちゃんとパーをとることができるひとの能力差は、カップの手前で止まりかける球しか打てないひとと、カップを必ず30センチ以上越えるタッチで打てる人と同じくらい、たとえ、うまくいったときのトータルスコアが同じでも、ほんとうの実力でいうと、おそらくエブリィワンぐらいの差があると言っていい。で、いずれも、前者の人ほど、スコアにしゃかりきになる。85点を切れるくらいになると、どうしても、無難な攻め方がセオリーとして身についてしまうので、ついつい、もっと深い部分があることを、見落としてしまいがちだ。あまりに、唐突だが、ふと、そんなことを思った。
家から2分のところに独りで住む母親と、同居する姑と、その両方をほとんどひとりで面倒みている友人と、ゆっくり話をする機会を得た。20歳くらい年上の方。それなのに、10代後半から20代に聴いていたアーティストが同じだと知って、彼女はとても驚いていた。やはり、どこも同じらしい。実の母親にはどうしても、厳しくなる。なるたけ、できることは自分でするようにと、敢えて手を出さない。かたや義理となると、まったく逆で、何から何までしてあげる。お陰で、まったく自分で何も出来なくなってしまったとか。どちらがいいのか、わるいのか、わからない。ともあれ、彼女には、週に3回朝から、夕方までの自由時間がある。これがあるから頑張れる、とも言っていた。そのうち、一日は仕事という名目で、実は文字通りの貴重な息抜き時間なのだそうだ。たまたま、彼女も好きとは知らず、件の歌い手の詞に登場する橋や神社や、坂を通るコースを選んだら、驚きも一入で、全くの方向音痴という彼女に感心されることしきりだった。どうして、そんな短時間で地図が頭に入るの?そう、呆れられていた。言わなかったが、センター試験の地理は殆ど万点だった。関係ないか。ともあれ、地図や方向云々だけは、恐らくとても男子脳みたいだ。一度通ると大抵のところは覚えてしまう。地図を見るのが愉しいのだから。頭に入れて、想像して走るのだって愉しくてしかたない。ただ、かつていた友人と違って、流石にゴルフ場のグリーンやコース配置はなかなか覚えられない。これは、かろうじて女らしい。のかもしれぬ。ともあれ。打ち解けた彼女に、些細だがいささか悩ましい問題を相談したら。あっさり、ひとこと。「それは仕方ないわよ。」かっこいいもの。あなた。そんなの、当然でしょ、みたいにしてたらいいのよ。逆に利用しちゃおうぐらいの気でいかないと…。ちょっとびっくり。かっこいいと言われて、少しくすぐったい。それに利用なんて。誰かを仕切ったり、つるんだり。そういうことには、一切関心がないから。でも。それは困るわねぇ~、そう言われるのが常だったこれまでより、なんだか、ちょっと気が楽になった。そんな気もしたのだった。
で、本題ですが。ひとのこころを動かすことほど難しいことはない。それは、意図すればするほど、なんとか折れてくれ、そう願えば願うほど、難しくなる皮肉も入り込んでくる。北風と太陽のように、簡単にいけばいいのだが。老いとうまく向き合えず、手術を悔いることから一歩も前に進めなくなってしまった母を見るにつけ。自分の年齢や、衰えから来るこころとからだの折り合いのつけ方に、尚一層の困難を感じないではいられない。彼女の場合は、家のなかでは、むしろ手術以前よりうまく動けている。それでも、リハビリをしていないせいもあり、どうしても新しい器具との感覚のずれが怖いらしい。あとは、近所のひとに、老いた姿を晒すのが嫌なのだろう。それが最大のところ。彼女の性格を鑑みるに、そう見受けられる。あとは、後ろ向きなこころ。もし、手術をしていなければ。いまごろ。していたら、もっと歩けていたかもしれないと溢していたのは目に見えている。要は、気持ち。なのだが…。とにかく、眠れないことでさらに、こころの状況は悪化するばかり。生きていても仕方ないといって困らせる。こちらは、そうですか、そうですか、というしかない。それはいけませんといったらいけないのだ。そういう状況のひとは、自分でも自分のマイナス思考をいけないとわかっているところがあるので、それまで否定されると、さらに追い込まれる。だから、頑張れというのも禁物。何を言われても、そうですか、そうですかと、同調することで、本人の自然能力が目を覚ますまで、ひたすら、静かに耳を傾けてあげるしかない。ただ、彼女の場合。ずっと以前にさる鑑定家の方に言われたことがある。このひとは、思い余ってとか、発作的に、理性が効かなくなる衝動の危険を孕んではいます、と。なので、絶対に、大丈夫とは言えない。でも、四六時中見張っていることがほんとうにいいことかどうか。ひとつの決断に対して、あらゆる事態の可能性と、それへの覚悟は必要だから。と、いうことで、ひとのこころをほぐすことがいかに難しいかは、ここからもよくわかる。ひとは機械ではないのだ。部品を取り替えたり、油をさすだけで簡単にとまっていたネジが動く。歯車がまわる。そうはいかない。根気よく、それでも信じ続けて、いつか、わかってくれるまで待つしかない。愛とは、本当にひとを愛せるひとは、それ以前に自分ともちゃんと向き合った上で、自分自身をも愛せているから、いざというとき、いろんなことを引き受けたり、覚悟したり、相手の望みを何とか叶えてあげたいと思えたり、それが出来るものだと。わたしはそう思っているが、必ずしも、すべてのひとが、そうとは思わないだろうから。何が何でも嫌と、頑なな意地になってしまったこころをほぐす、薬はなんだろう。それでも、やっぱりそれは、厳しさも含めた愛でしかないように、そんな風に思う。ほんとに、起死回生の、ミラクル妙薬なるもの、ないですかねぇ。(あまりに、とりとめのない長広舌で申し訳ない。です。)