はじめまして。奈良安佐子と申します。
美容業歴31年。サロンオーナーになって今年で28年目になります。
今、現在、青森県弘前市にエステサロン。
湘南茅ヶ崎に2店舗、トータル3店舗運営しています。
自宅開業の方や家族にマッサージをしてあげたいという方対象に
マッサージ講座やスピリチュアルヒーリング講座、
そして自身の様々な経験も踏まえ
HAPPYライフコンサルタントなどもしています。
こちらでは私が得意としている恋愛に関することでお悩みのクライアント様が多く
チャネリング鑑定も併せてアドバイスとワークを行っています
現在は11月スタートのクライアント様募集となります
~生い立ち~
私は、青森県弘前市から少し外れた田舎で育ちました。
健康優良児でとにかく大きい!
というより太っていました。
母親は手が器用な女性。いつも洋服は母お手製の洋服。
編み物が得意で編み機でドレスまで作っちゃいます。
母親はそれを仕事にもしていたので、
仕事の合間に私の洋服をいつも作ってくれました。
おかげで、いつも素敵な洋服ばかりを着せてもらいました。
華やかで、人とは違うものをいつも着ていました。
しまいには何でも人と違ったものを好む
「目立たないといやだ!」という子に育ってしまったようです。
「目立たちたい!」という気持ちが
小学校のときは「負けず嫌い」という形になりました。
勉強にも必死で励む。
学校の様々なコンクールでは必ず賞を取る。
学芸会、音楽会などの行事では一番目立つポジションにいる。
今まで走るのが苦手で、運動会は大嫌いだったのですが
5年生のときひたすら練習に励み、5年、6年で3位から2位に。
1位にはなれませんでしたが
夢見てた目標の表彰台の上に立つことが出来ました。
両親も自慢の娘だったようです(小学校までは(苦笑))
目立ちたいという一心だったのでしょう。
そして、小学校の頃から自然に行っていたことがあります。
それが今の私を育んでいると思うことなのです。
「寝る前に1日の反省と感謝。」そして、「次の日にこうなったらいいな」ということをイメージして寝ます。
30分間、それを行ってから必ず寝るというのが習慣でした。
誰に感謝をというのは分からないのですが、
なんとなく話していたのだと思います。
もう一つやっていたことがあります。
「こうなりたい!こうしたい!」と思うことを毎日絵で描いていました。
運動会のときもそうでした。
1ヶ月前から毎日
表彰台の上に立っている自分を描いていました。
それを描くと楽しくて仕方ありませんでした。
ずっとそんなことを自然にしてきていたので
小学校のころは全てが思うままだったのだろうなと思います。
(その時は全く分かりませんでしたが。)
ただ、寝る前の儀式(私は勝手に儀式と呼んでました)をすると、
安心し誰かに守られてる気持ちになりました。
そして、儀式のおかげで「毎日良いことがあるな~」と実感していました。
それが、中学に入り突然変わってしまいました。
~不良~
「目立ちたい」の方向が「勉学」ではなく
「悪いことをして目立つ」「服装を派手にして目立つ」に変わりました。
今は死語ですが「ヤンキー」、「不良」になってしまいました。
中学3年のときには高校にも行かないと言い張り、夜遊び三昧。
他校の不良グループと遊び、自分でも怖くなるくらいどんどん変わっていく私。
高校もギリギリまで行かないと突っぱねていましたが、
「母親のどうしても学校だけは」という要望に応えて受験しました。
しかし、試験の前日も朝まで遊んでいたせいで、
試験中寝てしまいテストもまともに書かず、結果、不合格。
その後、なんとか別の学校には入学できました。
しかし、高校ではもっと荒れてしまいました。
毎週土曜日はディスコ通い。
勉強というものは全くせず、学校には友達に会いに行っているようなものでした。
外見は、パーマに金髪。
制服も当時は長いスカートが不良の象徴で、
「どんだけ長いの?」というくらい長いスカート。
ケンカや暴走族との付き合い。
学校に行かず遊び呆け、学校に行ったと思えば授業中は寝てるだけ。
近所でも、親戚の間でも、私は「駄目な子」「落ちこぼれの最低な人間」でした。
もう、今考えると恥ずかしいことばかり。
そんな私の趣味が神様巡り。
態度や外見からは想像が付かない趣味でした。
なぜ、神社巡りが趣味になったのかは、自分でもよく分かりませんでした。
「○○○町にスゴイ中る神様がいるらしいよ!」などと噂を耳にすると
とにかく足を運んでいました。
気付いたら、
「どこどこの神様に行くんだけど場所がいまいち分からない」
「あそこの神様って本当に中るのかな」
「どこどこの神様ってどんな人かな」
などと知りたい情報や分からないことがある人が
「安佐子に聞けば分かるよ!」というくらい通になっていました。
そんな私を見て親戚のおばさんたちが、
「安佐子のお父さんのおばあちゃんも昔、神様みたいなのやってたよ。
ひ孫だもんな~血繋がってるんだな~、だからそういうの好きだんだべ~。」と言ってました。
おばあちゃんは、私が産まれたときはもう既に亡くなっていました。
だから、写真と夢でしか見たことがありませんが、
写真の中の顔が私でした。(笑)
似てるなと自分でも思ってました。
昔、体の不調を訴える人を治してたりしたこともあったとかいう話も
聞いたことがありました。
青森の土地柄、「神様」と呼ばれる方が多く
今の職業でいうとヒーラーさんといったらいいのでしょうか。
悩みを話し、それを透視してアドバイスくれる方。
祀っている神様を降ろし、神様や先祖からのメッセージを伝えてくれる方。様々な方がいました。
「ん?」という方から「スゴイ!」という方まで様々な方のところへ
何十軒も行きました。
そんな趣味もありながら、
気付いた時は、自分自身も見えないものを感じることが出来ていました。
数日後のことが映像として見えたり、夢でメッセージを受けとったりしました。
授業中にも寝ていると(授業中に寝ているというのもナンですが…)
これから起こりうる問題、友達の事での出来事など
透視のようなことを自然にしていました。
更に集中すると、体を残したまま、意識だけをそこの場所に飛ばせ
相手が今何をしているかまでも見えたりしたことも度々ありました。
友達が家出をしていなくなった時も、夢でその友達を見ることができました。
居場所や、様子、何をしているか?ありありと見せられました。
そんなことが多々ありました。
でも、後々それはとても危険だということを知りもう怖くて出来ません。今思うと、日常的に透視のようなことをやっていたようです。
決して良い生徒でもなく、褒められることもせずの高校生活。
唯一得意だったのが、「友達と友達を引き合わせること」でした。
私と友達になるとどんどん友達が増えていくこともあって、
通学電車やバスの中は毎日が他校同士の交流会のようでした。
その引き合わせが得意なのが、今でも様々なことに役立っています。
高校卒業式前日まで、
「安佐子と○○○は卒業させない!」と
先生方が話してるという噂が出るほどでした。
高校もやっとの思いで卒業できました。
だけど、就職だなんて考えていませんでした。
将来への夢も希望も何もない私でした。
高校卒業後、実家を出てアパート暮らし。
私が学生の頃、母親を散々困らせ泣かせた結果、
親から「疲れた。出て行って。」と言われました。
悲しい反面、自由な毎日。
自由なので、就職してもすぐ辞めました。
でも、仕事もしていないのでお金もなくなります。
そして、また実家に戻ることに。
それでも就職しては、すぐ辞めることをまた繰り返しました。
小さい頃から変わらなかった。
「人とは違うことで目立ちたい!」という性格は就職の邪魔をしました。
「普通に就職して・・・」というのが苦痛でたまりませんでした。
小さい頃から変わらなかったことがもうひとつあります。
「自分の夢や理想をひたすらノートに書くこと」。
いつの頃からから、書いているときにふっとペンが軽くなるようになりました。
そして、誰かからのメッセージのような文章に。
その時は気付きませんでしたが「自動書記」でした。
悩み事などがあると、ノートに色々と書いてるとメッセージが降りてきて
不思議だなと思っていたのですが、日常のことだったので深くも考えませんでした。
それは、とても素敵な言葉やメッセージばかりでした。
そのメッセージで、励まされました。勇気付けられました。
メッセージを読んでるうちに、「やりたいことをやろう」と思うようになりました。
~美容への興味~
ある日、なんとなくテレビを観ていると、美容の特集がやっていました。そして、必死でそれを観ている自分に気づきました。
「人をキレイにする」とか「化粧品」や「メイク」に関して
人一倍学生の頃から興味がありました。
「美容の仕事がしたい!」と思うようになりました。
でも、美容の仕事というと
その時代は化粧品メーカーの美容部員か美容師しかなく
地元では難しいと感じました。
だけど、やっとみつけた「やりたいこと」を諦めたくない。
親にこれ以上心配かけたくないと思っていました。
小さい頃母親が作ってくれた洋服。
たまたまアルバムを開いたらお手製の洋服を着ている写真をみつけました。
私の横で、母親の幸せそうな笑顔が写っていました。
それを見てハッと大事なことに気付けました。
きっと私の中の根っこの部分は小心者。そして両親のことが本当は大好きなんだ。
本当は誰よりも一番信頼してて大好きなのが両親だということ。
なので絶対両親を安心させて、「お宅の娘さんスゴイね~」と
周りの人に言われ喜んでいる両親を見たいと思っていました。
小学校の運動会で賞をとった時、両親が喜んでいたこと。
そして、それを見た時、自分がどれだけ嬉しかったかがずっと記憶に残っていました。
母親が私のせいで色々と周りの人に色々と言われていました。
それを知った時、ショックで悲しくなりました。
変わろうと思いました。
もう一度喜んでくれる両親をみるため、そして自分のために
「頑張るぞ!」と決心しました。
「東京に行こう!」
学生の頃の友達だった子が東京に住んでいたのもあり東京へ。
東京には、夢だった美容の仕事が沢山ありました。
憧れの美容部員になることが出来ました。
入社してすぐ厳しい数週間の合宿。夜遅くまで毎日勉強。
でも、美容の知識やお顔のマッサージの勉強が楽しくて、
学ぶ・知識が身に付くというのがとても楽しかったです。
そして何よりもこんな姿を両親が見たら喜ぶかなと
そんな気持ちで厳しい合宿も耐えられました。
仕事をしながら夜は勉強。自分の顔を使ってメイクの勉強も。
勉強する楽しさを覚え、毎日が楽しくて仕方がありませんでした
お客様から「ありがとう」と言っていただける仕事。
こんな私に「ありがとう」だなんて。
学生時代の私には考えられないことばかりでした。
本当に嬉しくて、最初言われたときは涙を流して喜んだのを覚えています。
そして、キレイになっていく女性が性格まで変わりイキイキしてるのを見て、
地元にも「こんなサロンがあったらな」と思うようになりました。
地元、弘前の女性を私のマッサージでキレイにしてあげたい。
そして、お店を持ち母親を喜ばせたいと思うようになりました。
「地元に戻ってお店を開こう!」と思い立ち
24歳の時、美顔サロンを弘前でオープンさせました。
~開業~
貯金も無し。ゼロからのスタート。
信用もなくどこもお金を貸してくれるところはありません。
でも私のオモイが強かったせいか運を引き寄せ、融資が通りました。
びっくりでした!
しかし周りからは大反対されました。
「まだ若いのに・・・」
「弘前でエステサロンなんて・・・」
両親からも反対されました。
喜ばせようと思った母親も最初は反対でした。
しかし、結局は私の「絶対やる!成功させる!」という気持ちに負けました。
そしてオープンした日は、「お客さん」として来てくれました。
オープンして最初はなかなか思うようにいきませんでした。
でも数ヵ月後には物販で1ヶ月驚くほどの売り上げ。
サロンのお客様もみるみる増えました。
その当時は化粧品キープ制のサロンだったのですが、
キープボックスは100名近くになりました。
お肌を見ると、その方に何が必要なのかわかりました。
そのアドバイスが的確なのが喜ばれました。
そして、肌以外の悩み相談も好評でした。
恋の悩みから、仕事の悩み、人間関係の悩みまで沢山の相談を受けました。
まだ結婚もしていないし、子供もいないのに、
旦那さんとのこと、お子さんとのこと、
嫁、姑問題までも、お顔のマッサージをせず話しをしにくる人、
悩み相談を話しにくる人もとても多かったです。
お客さんからも恵まれ、経営も上手くいって、毎日が楽しい日々でした。
しかし、その後思わぬ出来事が起こりました。
~交通事故~
その日、お祭り大好きな私は、ねぶた祭りに参加していました。
最終日は大雨でした。
祭りが終わってから、恒例のねぶた小屋での飲み会が行われてました。
そこに加わろうと道路を渡ったら瞬間
車に跳ねられ20メートル飛ばされました。
大怪我でした。
美容の仕事をしていくうえで大切な部分がダメージが大きく
顔の額やあご、唇も何針も縫い前歯4本はなくなりました。
耳がちぎれ一部分は欠損で、そして左肩と手首が骨折し、全身打撲、靭帯損傷。
軌道に乗っていたサロンも辞めることになりました。
でも、その入院をきっかけに更に様々な能力を与えてもらいました。
頭も打ったのでその打ったときに何かが吹っ切れ飛んでいったのかな?と思ってます。
学生時代から夢ででもよくメッセージをもらっていたのですが
それが更に増して、入院中は今日こんなことがあるというのを予知していました。
当時はまだメールが普及していませんでした。
ですので、手紙が毎日何通もきました。お花も沢山いただきました。
ベットの周りがお花でいっぱいで、先生や看護師さんからも驚かれていました。
その花や手紙が、今日は誰から届くかまで分かるようになっていました。
それには自分も周りもびっくりし、
母親も頭打ったからどうにかなったのかなと心配していました。
怪我をして顔も傷だらけだし、
体も自由はきかず、耳の部分がひどかったのでその周りの神経も損傷したせいで
毎日病んで苦しい思いをしていました。
その代り、ずっと母親がとも色んな話しができました。
友達や知り合いも毎日色んな人が来てくれてとても楽しかったんです。
体の痛みはありましたが、それ以上に心はとても幸せ感でいっぱいでした。
幸せだな~と入院中ずっと思えて、自分が怪我をしたのを忘れていたようでした。
そのせいか、どんどん回復が早かったのっだと思います。
気がかりだったのはお客様のこととサロンのことでしたが、
友達や母親に協力してもらいながら電話や手紙で一人一人に連絡をしました。
普通なら落ち込んでる状況ですが、入院中ポジティブに変身した私でした。
そのおかげで、3か月間の入院の予定が、たった1か月で退院が出来ました。
退院後、数ヶ月間のリハビリ。
サロンのお客様にはマッサージは出来ませんでしたが化粧品の販売のみしていました。
手を少しでも動かしても大丈夫になってからはリハビリをしながら、
メンズショップ(洋服やさん)でアルバイト。
それと同時にサロンのお客様から要望があれば
お客様の自宅や私の自宅に呼んでマッサージをしていました。
どうしてもまたサロンを復活させてエステの仕事がしたかったのであきらめませんでした。
入院をきっかけに母親には更に感謝の気持ちでいっぱいになりました。
二人で旅行の計画を立てたりしました。
とにかく親孝行をしたくて仕方ありませんでした。
そんな矢先に、母親のガンが見つかったんです。
~母のガンとサロンの再開~
目の前が真っ暗になりました。
「まさか、自分の親が…」という気持ちで聞かされた日は
アパートで朝まで泣いていました。
気丈な母親だったので、ガンがわかって、数ヶ月間は家族皆にナイショにしていました。
心配させるのが辛かったようでした。
母親のガンをきっかけに
「人生は一度しかない!」「悔いのない人生にしたい!」と思い
「やりたいことはやろう!」と思いました。
数ヶ月後サロンをリニューアルし再開。
フットマッサージを取り入れたり、
母親のように病気の人、病気の家族を持っている方の力になりたいと思い、
様々な勉強をしました。
そして何よりもその頃から更に更にエネルギーアップしました。
見えないパワーが開花されました。
おじいちゃんやおばあちゃんが母親を勇気づけようと
私を使いメッセージをくれました。
母親と私の亡くなったおばあちゃんと3人でドライブに行ったときもありました。
そのときは、おばあちゃんが母親に昔の懐かしい話をしたり、
母親の小さい頃の話を聞かせてくれたりしました。
ドライブから実家に戻り、父親が帰って来た頃
「お父さんが来たね、お父さんびっくりするといけないからこれで私帰るからね」と
すーっと私の中から出て行きました。
ある時は、父親の方のおばあちゃんが出てきて、母親に色々とお礼を言ったり
何で母親を父親と巡り合わせたかなども話したり、
書ききれないほど色々なことがありました。
そんなことが約1ヶ月間続き、私に対しても大事なメッセージをもらいました。
「あなたの左手で人のマイナスのもの、苦しんでいるもの、辛い部分を取り去って下さい。
あなたの右手でプラスのパワー、良いものを与えて下さい。
そして、沢山の人を助けて下さい。人の為に役立てて下さい。」
3年間、入退院を繰り返した後、母親は亡くなりました。
入院中、私が人間関係で悩んでいて母親に相談した時がありました。
「いいじゃない、そんな悩みがあるって。生きてるってことよ。
悩んでるのも羨ましいよ」
と言った言葉が、ずっしりと身に染みて今でもたまに思い出します。
母親が亡くなった1ヵ月後にレイキヒーリングを習得しました。
入院中に「レイキヒーリング」というものがあるのが分かりました。
習いたいなと思ったのですが、近場で教えているところはなく、断念していました。
レイキを教える資格を習得した時。
母親が生きている間に学んだら母親を救えたのかなと後悔もありました。
でもこれも縁なのだと思いました。
母親に出来なかった分まで「レイキを広めたい」という気持ちが強くなりました。
行動した結果、弘前だけでなく口コミで
「講座を受けたい」とおっしゃってくれる方が全国からいらっしゃってくれました。
ティーチャーになって約18年。
述べ約300人のレイキヒーラーを輩出しました。
そしてセッションの数は数え切れない程させていただきました。
母親の死は、私にとって大きなものでした。
思い出して、悲しい気持ちにならないように
様々な資格を習得しました。海外にも短期留学しました。
東京恵比寿にもサロンを持てました。
それも、母親のお陰かなと思う時があります。
母親と最初で最後の二人での旅行が東京、それも恵比寿でした。
何で恵比寿だったのか未だに分かりません。
その時、母親が
「いいね~ここ。もし、あなたが青森に帰って来なくてずっと東京にいたら
こっちで結婚していたかもね。
そして、こんなとこに住んでたらお母さん毎月遊びに来るのに~」
と冗談で話していたのです。
恵比寿のサロンを見つけたのは母親だったのかなと。
これから、与えられたこのパワーで
もっともっと沢山の人の手助けをしたいと思っています。
そして、「人生楽しく思いのままに」。
夢や願いを即実現できるのは自分自身の思考次第というのが分かりました。
願いは実現することを、自分の経験から学びました。
※現在は恵比寿サロンはcloseし
神奈川県茅ケ崎市に移住し男性専門美容サロンとヒーリングとエステのサロンを運営しております
~予約の取れない店~
サロンは「予約の取れない店」と噂になりました。
業界老舗の専門誌!
「ヌーヴェルエステティック」に取り上げて頂きました。
エステティック業界向け経営情報誌の「エステティック通信」にも
インタビュー形式で掲載されました。
地元で活躍している女性ということで地方紙に取り上げられました。
青森で、テレビ番組を持ち美容情報などをお伝えしました。
2012年全国エステティックグランプリ顧客満足サロンで
北海道・東北地区2位になりました。
2012年全国エステティックグランプリでサロンから代表し
店長がフェイシャル技術部門で決勝進出しました。
2012痩身サーモシェイプコンテスト審査員特別賞しました。
全国の個人サロンのオーナー様向けに成功サロン事例として
発表する機会を設けて頂きました。
夢であった自社ブランドの化粧品を開発しそれに伴い法人化し
数年後母の死をきっかけにオリジナルの酵素ドリンクを開発。
青森県ではエステサロンでのスクールというのをいち早く取り入れ、
弘前近郊だけでなく片道3時間半かけて通ってきてくれた方も沢山いました。
受講希望をキャンセル待ちにしたこともあり、
講座が忙しくなりサロンのお客様の予約で悩んだこともありました。
ヒーリングの講座やセッション(特にスピリチュアルリーディング)では弘前だけでなく噂で広がり受講者は全国から問い合わせをいただくようになりました。
その声にお応えして、東京にもプライベートサロン&スクールを作りました。
エステではお客様のお肌や体の悩みを解消し、
それがサロンの絶対条件の一つでもあるので
お客様には裏切らない店だと喜んでもらっています。
ヒーリングでは、心の問題を解決したり、長年苦しんでいた精神的なものからの開放や理屈では考えられない奇跡的なことが起こった方もいました。
あきらめていた人生をプラスの方に変えるようになって人生までも変わったと、沢山の方からお声を頂いています。
~これからの夢~
今やっていることは、どれもずっと願っていたことです。
それを実現できたときは、
自分の気持ち次第で無理なものも可能に変えることが出来ると思いました。
こんな風にしたいと思うとそれがほぼ現実になってます。
願いも思いも自分の気持ち一つで叶えられると思います。そしてピンチはチャンスだということが言葉の通りだと心から確信しました。
大ピンチは大チャンスなので
今では、落ち込むよりその後にくるものが
チャンスなのでラッキーとワクワクできるようになりました。
3年前、私にとって人生最大の悪の出来事、、、
180度人生が変わってしまった出来事がありました。
恋愛、お金、会社、スタッフ
全て一気にほぼ同時に裏切りと失いました。
これはまたまとめてこちらにアップできたらと思いますが
しかしこの出来事が沢山の方、
今どん底で苦しんでいる方のためにきっとなると思っています。
あらゆる方法で今は精神的に復活できた私です^^
今、この瞬間だけを常に大切に生きています
今が幸せと思えるのも壮絶な出来事のお蔭だと思っています。
振り子の法則、、、
大きく落ちた分大きく上がっていくのですよね
そして
「自分の思考でいくらでも人生は変えられる」
この経験から学んだことを沢山の人に伝えたいと思っています。
私が出来ることは
元気とパワーを与えること
私と出会った方にhappyをこれからも与えていきます☆
2021年 10月21日