クリスチャンの考える性とは?

2、 キリスト教は禁欲主義?

 ハワイで長年牧師をしている先生が、数十人もの男性を前にしてこんな話をされました。「皆さん、私はハワイで20年以上も牧会しておりましたが、ハワイというところは大変開放的な場所です。海岸からホテルや駐車場まで、若い女性でもタオルをかけず、ガウンもはおらず、水着のままで歩いていきます。ある時、私がハワイの海岸沿いの道路をドライブしておりますと、信号が赤になりました。横断歩道の前で停止しますと、私の車の前をビキニやハイレグの大胆な水着姿の若い女性たちが横断して行きました。」そこまで話すと、先生は出席者の男性たちを見渡して、こう質問された。「皆さん、その時、牧師である私は何を思ったでしょうか?」。一瞬、戸惑いの空気が会場に流れる。「こんな立派な先生だから、何も思わなかったのでは・・・」「いや、いくら牧師とはいえ、やはり男性なのだから・・・・」そんな声がそれぞれの心の中でこだましたことでしょう。それを察知したのか、この先生、にっこり笑って正解発表。「皆さん、これで何も感じなければ、男ではありません。この状況で何も感じなかったとしたら、それはきよめられているのではなく、枯れているのです!」一転して、会場は大爆笑。出席した男性たちは笑いながらも、ほっとした表情。続いて、先生がおっしゃった。「でも、その後が感謝でしたね。私は、その女性たちに向かって運転席から「God Bless You」と祝福をお祈りし、清らかな思いをもって見送ることが出来ました。」

 では、私たちは異性をどう見るべきなのか?イエス・キリストはこう教えておられる。「『姦淫してはならない』と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見るものは、すでに心の中で姦淫の罪を犯したのです」(マタイ5:27-28)。

 「姦淫」とは、厳密に言えば、既婚者が結婚相手以外と性関係を結ぶことを意味する。イエス・キリストは情欲自体を問題としたのではなく、情欲の用い方を問題としておられるのだ。聖書によれば、「見て情欲を覚えること」を罪としていない。しかし、その起こってきた情欲をもって異性を見ることは罪なのである。情欲が起こることはやむをえない。大切なのは、起こってきた情欲によって異性を見るのか、その情欲を捨てて清らかな思いに心を転じて異性を見るかどうかが、罪であるかないかの分岐点となるのです。

 日本社会は性的な誘惑に満ちている。アジア各国へ何度も旅行経験を持つ人はこう言っている。「アジアの国々で、ポルノが日常生活にまで浸透しているのは日本とタイだけだ。」たいていの国にポルノ文化が存在するが、ある特定の場所に行かなければ、それに触れることが出来ないシステムになっている。逆に言えば、普通に生活していれば、ほとんどポルノに触れずに住む社会なのだ。そのような社会ではポルノを楽しむ自由もあれば、それに触れないで過ごす自由もあるわけだ。一方、日本の社会はどうだろうか。コンビニの書棚にはポルノ雑誌が並び、テレビを通して家庭の中にまで露骨な性描写が送り込まれてくる。また積極的にアダルトビデオを購入するものも多い。2005年度の日本における1年間のアダルト動画販売数推計(ネット動画はのぞく)は販売本数3723万本である。日本の男性(0歳からお年寄りまで)数が約6000万人であることを考えると、その数は多し。

 そこで、「清く、正しく、美しく」をモットーとする人々は禁欲主義で対処する。また、キリスト教は禁欲主義だと信じている人々も少なくない。しかし、意外かも知れないが。聖書にはこう記されている。「どうして、まだ、この世の生き方をしているかのように、『すがるな。味わうな。さわるな』というような定めに縛られているのですか。・・・・・・肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです」(コロサイ2:20-23)。さらなる決定打はこの記述である。「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になるとある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心奪われ、信仰から離れるようになります・・・・・結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし、食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られたものです」(Ⅰテモテ4:1-3)。結婚の禁止や断食命令、つまり、これらは悪霊の教えであり、それは何の解決にもならないのです。キリスト教徒は禁欲主義ではなく、自制主義なのです。(参考:水谷潔「チョット聞けない男女のおはなし」等)


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