今回は少し、短歌の周辺の事を書いてみようと思う。 

 うちが、短歌を書き始めて丸2年ちょっとになる。そんな中で最近「短歌の風景」と言うことを強く考えるようになってきている。
 書き始めのころは、とりあえず猿真似的に従来の基本形を軸にしながらも自分の想いをその中に込めてきた。それが、さまざまな歌人さんの本を読むにつれ、自分の表現としての言葉を選び始め、自分なりの工夫をするようになってきたと思う。
 しかしまだ「短歌そのものの風景」と言うことまでは考えが及んではいなかった。だから、目先の面白さとかに目を奪われていたように思う。
 それが、枡野さんの本を読んでいて、短歌には「短歌の背景」があるのだと気づかされたのである。それは何か?と言うと、短歌には短歌でなければならない表現があり、「短歌だからこそ出来る表現」があるのだと言うこと。
 適材適所という言葉があるが、まさにそれと同じで「短歌だからこそ出来ること」「短歌でなければ出来ないこと」があるのだと。
 音楽だからこそ出来ること、映画だからこそ出来ること、漫画だからこそ出来ること、舞台だからこそ出来ること、小説だからこそ出来ること、詩だからこそ出来ること、写真だから出来ること、絵だから出来ること等々数限りない表現方法があるのだ。
 言い換えるならば「短歌でなければ出来ないこと」を探すことが「短歌としての言葉を生かすこと」なのではないかと思うようになった。
 そう思って短歌を読んでいると「この風景は、短歌じゃなくても良いじゃないか?」と感じるようになってきた。これは、映画やテレビドラマでも他の媒体での置き換えが可能であり、そっちの方が面白い表現になるだろうと思えるものがある。
 その辺りの、背景の混在が短歌を面白くないものにし、画一化した、単なる写生描写の歌にしてしまっているのではないかと思うのである。

 例えば、自分の歌で下記の作品がある。(これは、初期も初期に書いた作品)

「ぷりぷり ぷりてぃ~ プリンちゃん 今日も今日とて ぷりんぷりん(意味なし) 」
「ひと目合った その日から! 恋の花は満開で 瞳はきらきらお星様 ☆ヾ 池田理代子も適わない オスカル おぉ アンドレ ヒッシっとな(字余り)」

 短歌を知らない人からは、結構と受けた作品ではあるが、この作品に短歌的な背景があるか、もしくは短歌的な背景を加えられるか?と言ったら、答えはノーだろう。
 では、短歌でなければならない、短歌だからこその表現は一体何なのだろう?
 残念なことに、自分自身にとってのこの答えは、まだ実は出ていない。当分出ないかもしれない。しかし、常に考えながら最近は短歌を作っている。ただ沸いてきた言葉を57577の流れに乗せるだけではなくて、どういう風景ならば、短歌としての背景を持たせつつ面白い表現が出来るのかを考えている。そんなチャレンジを繰り返しながら、いつかこれだ!と明確に言える日が来ると思っている。

 もしひとつ、ヒントとなるものがあるとしたならば、それは写真ではないか?と思ってはいる。写真と言うのは、まさに一瞬の空気感を切り取ってくる。その切り取った、切り取られた中に無限の可能性と言うか、イマジネーションを広げてゆかなければならないし、広げさせなければならない。この「一瞬を切り取る」と言う部分が、短歌が写真と似ていると感じる。切り取った部分から何を見せるか?何を見せられるか?なのだと、写真を撮りながら思うのである。
 写真を撮ってみれば?とは言わないが、見るだけでもいい勉強になるのではないだろうか。

「さよなら三角 また来て四角 じゃんけんぽいぽい あっちこっちむいて じゃあねまたあした!」