日本人の特徴として「曖昧」というものがある。



最近レポートばかり書いてるために

入門ゼミで貰ったレポートの書き方

みたいなテキストを必死こいて読み返しているのだが

そこで文体にするときにやめたほうがいいという表現に

『曖昧な表現や冗長な表現を避けよう。』とあった。


冗長ってなんじゃい?と俺は思ったため

とりあえず曖昧の部分について。


この本によれば

日本語は、伝統的に曖昧な表現が多い

だ、そーだ。


「質問とかしていいですか?」の「とか」。

質問のほかに何する気やねん

と訝しく思ってしまうとかね。

(あ、「とか」って使ってもうた)


その曖昧というものが金田一さんはどう書いているか

電子辞書で『あいまい』と引いてみた。


あいまい[曖昧]:はっきりしないこと。確かでないこと。ぼやけていること。また、そのさま。あやふや。


成る程辞書は曖昧じゃなくていーねー

辞書が曖昧だったら

『だいたいはっきりしないこととかのこと。』

となりそうだなー。

ま、俺はそれはそれで納得してしまいそう。

とか、って言葉は本当に曖昧だなー。


しかし曖昧なことが悪いことかと言えば

俺はそうじゃないと思うな。

例えば明らかに友達の着ている服が変だったときは

「その服、ヘン!」と明確に言ったら

その場の空気は止まるだろう。


でもそこを曖昧に

「いつもの雰囲気と違うねー」

って言葉を濁しておけば

その場は収まるじゃあないの。

「個性的だねー」

そう言えば悪い気はしないじゃあないの。


だから日本は安全で

よく分からないけど平和的なんだ。

はっきりしない曖昧さで安全。

このよく分からないけどっていう表現の

曖昧さもいいじゃない。


で、今思ったけど平和的ちゅーのも曖昧だな。

いわゆるキングオブコメディの多用する

「的」という表現。(ついでに「みたいな」も)


平和的のほかにも

最終的

総合的

比較的

自分的

その他もろもろ。


自分的なんてのは

性別でも俺的とか私的とかに

変化可能。


俺は、と直接的(これもよく使う)

に言わない感じがまた何かええやないか。

この「感じ」とか「何か」も曖昧の象徴だな。


この辺はアメリカ人には絶対出来ないだろうな。

彼らはこんな回りくどいことしない。

面倒くさくなったら「ファック!」の一言で済ませそうだもの。



この曖昧な言葉は

昔から政治家も多用しているもの。

「記憶にございません」

とか

「感動した!」

とか。何に?


こういう言葉は察するに言いながら

頭で熟慮した上で伝わりにくくなってる(あかんやん)。

「ノーコメント」

「まだ何ともいえない」

「別に・・・・」

いいねえこの

曖昧語のオンパレード。


こんな言葉たちを文の中に

いっぱい盛り込んで話したら

えらく長くなって、押し問答の繰り返しに

なるに違いないなー。


ゆとり語なんてものよりも

この曖昧語っていうのを研究したものの方が

俺は興味があるなー。


政治家なんてものは

ニュースを端的に見る限り

こういう曖昧な表現がよく取りあげられてるなー。


と、まあ偉い人たちもこうなんだから

大人が子供にもっとハッキリ言えという

怒り方をしてても説得力がない。

むしろ子供の方がピュアな分ハッキリしてんだろ、と。


だから逆にこの曖昧な表現を

押し出していったらいいじゃないか

と思うわけだ。


「渋谷っぽいところで

服とか買って

ゲーセンくさいところで遊んで

お金的なの結構使って

帰りの電車賃が大体無くなって

仕方なくよく分からないくらい歩いて帰ったかもなんだー。」

ってな会話をしてみたらいいじゃないか。

ごっつイライラするけども。



曖昧に対抗されるのが

自分でちゃんと答えを出すシロクロつける文。


曖昧なのが嫌という人は

「今日どこ行く渋谷」

「何食うラーメン」

「今何時親父でんぷん画鋲」

「会いたかったYES」

などの自問自答会話がお勧め。裏を返せば独り言。



さて原稿用紙4枚分も使って書いた曖昧のススメ。

陽射しの厳しい中友達と旅行に行くという方は

その間使ってみたりみなかったりしてはいかがだろうか。

ただトークが引き伸ばされすぎて名物が楽しむ時間がなくなった

などという苦情は受け付けない。