寺山修司と生きて    田中未知 | やるせない読書日記

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寺山修司の秘書だった田中未知の本。九条映子と離婚後、寺山に数多くいたガールフレンドの一番


位が高い女性といえばいいのだろうか。二十才で三十才の寺山と知り合い十六年間、寺山が死ぬま


で一緒。天井桟敷に入団したが役者ではなく製作とくに照明、寺山の個人スケジュールの管理など


を担当。別れた九条もプロデューサーとして劇団運営に関っていた。


何冊か寺山に関する本を読むと、書く人によって寺山修司がまるっきり違っているのに戸惑う。


「虚構地獄  寺山修司」「寺山修司・遊戯の人」「虚人 寺山修司」などの寺山像とは大分違う。


この三冊によれば特に十代から二十代までの寺山修司は成り上がるためには盗作もし友人、恩人を


踏み台にし、自分の過去も改竄する人物であるが、この本では原稿依頼を断りきれないお人よしで


常に人を気遣う人になっている。寺山が三十代になって精神的に余裕ができたためか田中の身贔屓


かは分らない。九条映子や萩原朔美の本を読んでも寺山像は異なっている。人の立場によって見方


も違ってくるので仕方がないが。


本の印象としては内幕本の面白さはあるが、それ以上ではない。寺山修司への25への質問という


いかにもな寺山修司風の気恥ずかしくなる文章もある。


いろいろ書いてもしかたがないので気になった事項二つについて感想を


■頻繁な模倣について


私が不思議に感じてきたことがある。


寺山に関する多くの本に、「鬼の首をとったように」必ず引用される短歌がある。草田男の俳句と


並べると寺山の短歌が剽窃であることが分るというのである。


向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男       修司


人を訪はずは自己なき男月見草                  草田男


「自己なき男」が借用だというのだ。もちろんこれを否定するつもりはない。


だが、私ならこう考える。これは、人々が言うように「時間がなかったから人の言葉を借用した」ので


も「借用しても見つからないだろう」と思って書いたとは思えないのだ。同人誌のまったく目立たない


俳句から引用したというならともかく、草田男の句は誰でも知っている。なのになぜあえてこの言葉


を引用したのだろうか、そう考えるべきではないか?


もちろん、この「自己なき男」という言葉に少年は魅せられたのである。自分の姿がそこに投影され


ていることに衝撃を受けたのだ。他人の俳句のなかに自分を見出して、たぶんこの言葉を発見し


たときにも、一週間は喜んでいたのではないかと想像する。(略)


私が言いたいのは、性格的に自分で表現できない寺山は、正真正銘の「他人の言葉」だからこそ


安心して己をあらわにできると無意識に感じたに違いないということだ。使ってみたい衝動を抑える


ことができなかった少年、寺山修司がそこにいたと私は想像する。


あまり説得力がない。自分の都合ばかりで模倣された方の気持ちは忖度されていない。後年、「百


年の孤独」という映画の題名をガルシア・マルケスの著作権元から変更を求められた。模倣でもな


んでも作品がよければいいがこの歌は作為的な感じがする。もっと卑近な例をとれば田中が作曲


した「時には母のない子のように」であるがこれは黒人霊歌に同名の曲があり出だしの歌詞をそのま


ま借用している。どう見てもオリジナルのほうが数等優れているし、田中の曲も素人臭くおまけに出だし


がオリジナルにそっくりではないか。こういう作品で世間の寺山の評価は形成されていったのだが


何故、寺山ほどの才能がありながら平気でこの程度の仕事を乱発したのか理解に苦しむ。この本


でカルメン・マキがぶーたれて苦労したことが書いてあったが、カルメン・マキが「時には」とか「山羊


にひかれて」(この歌もすごい)を歌わされるのがいやでいやでたまらなかったのは有名な話である。


田中の見解は身贔屓がすぎると思う。問題なのは寺山が俳句、短歌に優れた資質を持ちながら自分


の才能を十分に開花できなかったことである。


 わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして


こういう高度に知性的な歌を作る人間が「やぎにひかれて行きたいの」などという白痴的などうしよ


うもない詩を作ったのが良く分らない。生きていく糧だったのか。


寺山は五十になったら俳句を再開する気だったが、芝居や映画、雑文で荒れた感性でいい句


が詠めたか疑問である。


■母について


嫁がとんでもない姑に苦労するように田中は寺山の母はつに寺山の死後まで苦しめられる。


寺山はつの母としての本質は以下の文章に集約されている。


  庭の木に縛りつけられた少年が母にものさしでむち打たれるシーンである。(草迷宮のワンシーンである)


  このシーンを撮影しているときのことだ。「おふくろがぼくを木に縛りつけてものさしでぶつんだよ。


  それが友だちがいるときにかぎって、みんなの前でわざとやるんだよ」と、寺山が言ったのである。


  友だちの見ている前で実の母に縛られ、ぶたれる少年の気持ちが、読者には分るだろうか?


子供は親を選べない、先天的な状況として親を受け入れなければならない。    


寺山は九条映子と27歳で結婚して母と生活したアパートを出るが母は新居に石を投げた。息子に対して


さえ自分を犠牲にすることができない。渋谷に天井桟敷ができた時、母親は劇場内の喫茶店をまかされる


がその行状がすさまじい。(おぞましい事ばかりだ)文中にもあるとおり入院を要する病気だったのだ。


 とりあえず様子をみて見ましょうということで、相場先生の助手のNさんが喫茶店の客を装って


 寺山はつと仲良くなるという方法が取られた。Nさんと相場先生の診断では、最初は「精神病院に


 入れていい状態だ」と告げられていたのだが、寺山は実行に移すことができなかった


傍から言わせれば入院治療させれば良かったのだが中々そうもいかなかったのだと思う。


出征して父を亡くして精神的に欠損している母親に育てられた境涯というのはとてつもない地獄である。


そして田中は寺山が死んだ後もはつの罵倒や恫喝をうける苦しみを味わう。



田中未知は寺山のフアンで自分が開いた絵の個展に寺山を招待したことから知遇を得て天井桟敷に


誘われる。寺山は聞き上手で女にもてた、長身でハンサムだったこともあるが、僕の人生の見聞によ


ると幼年期に母親の正当な愛情を得られなかった男は、その補完としてほかの女性が自分を愛して


くれるのは当然のように振舞う。だからもてる。寺山修司もそうだったのではないか。田中未知にしても


こんな苦労するなら普通にOLでもしていればいいじゃないかと思うが、寺山にあれだけ献身できたのは


女性としては幸せだったのかもしれない。


後半に出てくるいい加減な医者のエピソードは本当に胸くそが悪くなる。