『ヘンリー六世 第三部』 ウィリアム・シェイクスピア 著/小田島雄志 訳 | 今日もこむらがえり - 本と映画とお楽しみの記録 -

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備忘録としての読書日記。主に小説がメインです。その他、見た映画や美術展に関するメモなど。

 

 

 

第二部のすぐ後から、劇場版「ヘンリー六世Part2」の後半部分でおおよそのエピソードとイメージは映画も本も一致している印象です。年代としては1455年のセント・オールバンズの戦いの直後から、1471年ヨーク側がテュークスベリーの戦いで勝利を収め、エドワード四世が王位につくまでの16年間となっています。

 

それにしても、誰も彼もが王位につきたがるなぁ~と常に驚きながら読み進めてきたシェイクスピアの歴史劇。王族であったり、政治上の重役についていたり、でも十分な栄達が享受できるわけだし、気楽でいいのに・・・そんなに常に誰かに狙われる王冠、いざ自分が手にしちゃったらその瞬間から同じように自分が狙われる立場になるわけで、喜んでいられないと思うのですが・・・それでも、王冠を持つものと持たざる者とでは、肉親殺しをしてまでも手に入れたい大きく絶対的な違いと魅力があるのでしょうか、少なくとも持たざる者には見えるような。(何故ならば少なくともヘンリー四世時代のハル王子は、父ヘンリー四世の王冠にたいし、それを戴く者に苦しみを与える存在と認識しているので)

 

とか思っていたら、若きヨーク公リチャード(後のリチャード三世)が、ヘンリー六世が生きている間は王でいていいと合意した父親に対してそれじゃあ甘い、と王冠の魅惑を説き聞かせる場面がありました。曰く、

Q:
考えてもごらんなさい、王冠をかぶるのはどんなにすばらしいことか、
あの黄金の輪のなかには楽園があります、
詩人たちが歌う至福と喜びのすべてがあります。
:UQ

だそうです。まさにないものねだり、隣の芝は青く見えるの極端バージョンでしょうか。指輪物語の指輪のように、所持する者に巨大な力を与える一方で苦しみや争いの元になる魔力の込められた存在の象徴のおうな王冠。その王冠の魅力に取りつかれたリチャード自身が、後にリチャード三世となって望みを叶えた後、少しも幸福を味わえない未来が待っているのだから人の世は思うにままならないものです。

さて、あらすじは劇場版「ヘンリー六世Part2」と同様、自分の息子に王位を譲れないことになったマーガレット妃が激怒してヨーク公の屋敷を急襲し、ありったけの屈辱を与えてヨーク公と若い四男坊を惨殺し、父の復讐に燃えるエドワード、ジョージ、リチャードの息子たちとウォリック伯が反撃してついに王位奪還し、隠居の地からこっそり変装して抜け出した(この部分が映画とは若干違う)ヘンリー六世が羊飼いたちに見破られて捕獲されロンドン塔に幽閉の後殺されます。

マーガレットは息子と一緒にフランス王ルイのところに避難しているところにウォリックがルイの妹姫と即位したエドワード四世が勝手に一目惚れしちゃった未亡人エリザベスと結婚しまーすのお知らせが届いて一同激怒、ウォリックはマーガレットとヘンリー六世側に寝返ってついでに兄のエドワード四世と仲たがいしたジョージも加わって反乱を起こすものの最終的にはエドワード四世が勝ちます。細かいエピソードの若干前後が入れ違ったりがあるくらいで大まかなところでは「ヘンリー六世Part2」の後半部分と大きな違いは観られませんでした。そして、黒リチャードがジワジワと台頭してくることもあって、ヘンリー六世の3部作の中で一番展開のテンポが良く面白かったです(*'ω'*)。

一番大きい相違点は、映画ではマーガレットはそのままイギリス国内で罪人として幽閉されることになりますが、原作では父アンジュー公が送ってきた身代金の代わりにフランスに送り返せ、と命令が下されている点。あれ、マーガレットはフランスに戻っちゃうの?劇場版では次の「リチャード三世」で、魔女みたいになったマーガレットが直接間接的にリチャードを苦しめる大きな役割を果たすのですが、シェイクスピア版ではどうなっているのか、次の一冊が気になります(´ω`*)。

ヘンリー六世の3冊では巻末の解説者が、訳者である小田島さんの14年後輩にあたる東大教授の高村忠明さんにバトンが渡されているのですが、この解説の中で、ヤン・スコットというポーランド出身の批評家が発表した「王たち(史劇論)」という論文の中で、リチャード二世、三世を中心とした「シェイクスピア歴史劇の中に、ナチの占領や強制収容所や大量殺人の時代の夜を読みとっている」とあるのが興味深いです。本文の最後にチラっと紹介されている程度なので詳しい内容はわからないのですが、いつか機会があれば概要知りたいなと思いました。