「私説桶狭間」64回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)


時間のお話しです。
時計のない戦国時代、時間はどのように認識していたのか。
元々はやはり朝・昼・夜の区分だったそうです。そして中国から渡ってきた時間の数え方が定着します。1日を12に分けて、それぞれに十二支をはめこんだ時辰、十二時辰という時法です。
午前0時が子の正刻で、午前2時が丑、お昼12時が午、22時(夜10時)が亥の正刻です。
丑三つ時や正午という言葉はここからきているのですね。


平安時代の京などでは、漏刻(ろうこく)という名の水時計で時間を図り、鐘を鳴らして町中に知らしていたそうです。王朝の義務であり特権だったわけです。
では地方はどうだったかというと、お香を炊いて計った時香盤などがあり、お寺の鐘などで知らしていたそうです。
当然現在ほどの精度はないわけですが、一応定時法だったのですね。


室町時代になるとこのような制度はなくなり、日の出と日の入り、正午の南中、日の一番高い頃を基準とした計り方となります。日の出が卯の刻、南中は当たり前ですが午、日の入りが酉(とり)です。日の入りが春分に秋分、夏至や冬至があり、毎日少しずつ日の出、日の入りの間隔が変わっているわけですからこれを不定時法といいます。
むしろ時間の計り方は逆行したといえるでしょうね。


つまりは永禄のこの時期、日中は太陽の角度が時計代わりだったわけです。
ちなみに物語の今の時点は7月12日、今のグレゴリオ歴では8月25日と考えています。
この日の日の入りは18時13分だったみたいで、誤差は比較的少なかったようです。今ならお盆のすぐ後で、まだまだ残暑が強いというイメージですが、3~40年前はお盆が終わると比較的暑さが弱まった印象が残っています。
いずれにしても今回のエピソードは物語をつなげるための完全なフィクションですので、日付などを明記する必要はないと考えました。
ではなぜ7月12日に設定し、何を起こそうとしているのかは、次回に説明させていただきます。(久々の引っ張り)