本日10月10日は、本来であれば『体育の日』です。
平成10年のハッピーマンデー制度を受けて10月の第2月曜日に変更になりましたが、元々は10月10日が体育の日です。
日付の変更や名前の変更によって、祝日の意味合いが年々薄れていると感じていますので、本日は体育の日にまつわる話をしようと思います。
なぜ10月10日が体育の日だったかと言うと、50年前の今日、東京オリンピックの開会式があったからです。つまり、1964年10月10日ですね。
この東京オリンピック開催がどのような意味を持つのか、そしてどのような経緯で開催に至ったのかを知る事は、今の日本人にとっても、とても大切でしょう。
その理由の一つは、やはり2020年の第二回東京オリンピックでしょうね。
これをお読みの皆さんも、この記事をお読みになり、話のネタにしてください。
①大活躍の日本の金メダルは16個。その中でも東洋の魔女は日本の希望だった
この東京大会では、日本は金メダル16個を獲得して全体の3位の記録。未だに日本が16個より多く金メダルを取ったオリンピックは他にありません。(2004のアテネオリンピックで日本が金メダルを16個取り、タイ記録になった事はあります)
レスリング、柔道、体操など日本のお家芸での金メダルも多いですが、特に有名なのは女子バレーボールの『東洋の魔女』が金メダルを取った事でしょう。
最近では、日本の女子バレーボールチームが、ハイブリッドシックスという新しい戦法を編み出して快勝を続けていると聞きますが、日本はこの時期から新技を利用して他国を圧倒してきたようです。
この東京大会で有名になったのは、回転レシーブですね。
しかし、実は回転レシーブが有名になったのは、これよりも2年前の世界選手権でした。
1962年の世界選手権で、既に東洋の魔女として恐れられていた日本と、宿敵ソ連お互い全勝で迎えた最終戦で、回転レシーブを駆使した日本は3-1のセットカウントで勝利して優勝しました。
日本の団体競技が世界大会で優勝したのは初めてだったため、大きなニュースで取り上げられて、日本中が湧いたそうです。
その後、東洋の魔女ら12名は、優勝の褒美に世界一周旅行を行ったあと、結婚適齢期を迎えたことなどを理由に選手と監督は引退を表明していました。
しかしながら、2年後の東京オリンピックで女子バレーボールが正式種目に入る事が決定した事から、『東京オリンピックまで続けてほしい』と、日本バレーボール協会幹部や国民から続投を望む声が高まります。
そこでキャプテンが続投を決断したこと、監督が『俺について来い!!』と一言発した事から続投が決定!
2年後の東京オリンピック優勝を目指して猛練習を再開し、見事オリンピック金メダルを獲得したそうです。
このオリンピックでの、ソ連との優勝決定戦は視聴率66.8%を記録し、未だにスポーツ中継としては歴代最高との事。当時の熱気が伝わりますね。
私の世代の人間にはあまり知られていない事実かもしれませんが、こんなドラマが背景にあったかと思うと、感動しますね。
②オリンピックに向けて急ピッチでインフラが整い『オリンピック景気』に。
オリンピック開催が決まった時から、準備をしなければならないという事で、東京ではインフラや建造物がどんどん充実していきました。
しかし、多くのものが10月10日の開会式に何とか間に合わせるという、離れ業でした。
例えば、日比谷線が8月29日、東京モノレールが9月17日、東海道新幹線が10月1日に開通。まさにギリギリです。
他にも、建物でいえば、日本武道館は10月3日ですし、試合会場ですらこのギリギリです。日本人の意地が感じられます。
他にも、首都高速道路と名神高速道路の開通、浅草線の開通、羽田空港のターミナルの拡幅、環七・六本木通り拡幅、ホテルニューオータニ、ホテルオークラ、東京ヒルトンホテル、東京プリンスホテルなんかもオリンピックの準備のために作られたそうです。
これだけたくさんの公共事業や民間事業が進むと、かなりお金が世間を回るようになりそうですね。
また、家庭でオリンピックを見ようと、カラーテレビが急速に普及して、さらにお金が回るようになりました。
この好景気を、一般に『オリンピック景気』と言います。
当時は池田隼人首相が所得倍増計画を実施中で日本の高度成長を成し遂げようと一丸になっていた時期でもありますから、日本がドンドン豊かになっていき夢のある時代だったのではないでしょうか?
そんな池田隼人元首相は、ガンに侵されていたにも関わらず、東京オリンピックの開会式には何とか出席しました、閉会式後の10月25日には退陣を発表しました。
③幻の1940年東京オリンピック
実は、東京オリンピックに沸いたのは1964年大会が初めてではありませんでした。幻の1940年東京オリンピックというものがあります。
大東亜戦争前は世界の一等国だった日本(大日本帝国)は、1936年にIOC(国際オリンピック委員会)から1940年大会の開催権を獲得していました。
しかし、1931年に満州事変(日中戦争、日華事変)が起こった事の影響から、1938年にその権利を放棄し、1940年の東京オリンピックの開催は中止になってしまったのです。
この1940年というのは、皇紀2600年(神武天皇が即位した年から数え始める日本独自の暦)に当たる記念の年であったため、『皇紀二千六百年記念行事』の開催の準備もされていたので、日本中が湧いていたため、開催中止の決定があった時は多くの日本国民が落胆したようです。
ちなみに、もし1940年大会が開催したら、アジア初はもちろん、有色人種国初の開催という快挙でした。
結局1940年の大会はフィンランドのヘルシンキに権利が移りましたが、これも第二次世界大戦の勃発で中止となり、1940年にはオリンピックは開催されませんでした。
その次の1944年のロンドン大会も戦争で中止となったため、1936年から1948年までの12年間はオリンピックがなかった事になります。
④フレッド・イサム・ワダの活躍で、敗戦国から先進国に返り咲いた象徴が『東京オリンピック』
敗戦を迎え、ご存じの通りGHQを始めとする連合国にやりたい放題されてしまった日本ですが、その中でも毎回の大会の開催地に立候補を続けます。
そして、1959年のIOC総会でついに、再度東京での開催権を獲得します。
しかし、その裏にはまたまたドラマがありました。フレッド・イサム・ワダという日系人の活躍があったのです。
フレッド・ワダは、ロサンニゼルスに住んでいた日系人でした。
1949年にロサンゼルスで開催される全米水泳選手権に出場しようと、日本の水泳選手6名がロサンゼルスに来たところ、フレッド・ワダが自宅を宿舎として提供した事からドラマがスタートします。
では、なぜただの日系人が自宅を宿舎として提供したのでしょうか?ホテルなどの用意はなかったのでしょうか?
それは、日本がまだ敗戦から間もなくて、マッカーサー率いるGHQに散々嫌がらせを受けていたことがあったからでした。
日本選手団は、『ジャップ』と罵られ、唾を吐きかけられたり、ホテル宿泊拒否をされたりと、不当な扱いをアメリカで受けます。
そこで、フレッド・ワダが自宅を提供して、食事を提供したのです。
結果、日本選手団は世界記録で1位を取った古橋広之進や、2位の橋爪四郎など、目覚ましい活躍をして、アメリカから評価されました。
この功績を受けて、1958年の東京オリンピック招致に向けた準備委員会が設立された時、フレッド・ワダも委員に就任し、1959年のIOC総会での集票活動に邁進することになるのです。
しかし、日本の獲得予想票数は圧倒的に不利。そこでフレッド・ワダは何をしたかと言うと、正子夫人と同伴で、少ない自費で中南米を歴訪し、各国のIOC委員達に、東京オリンピックの招致に協力してくれるようにお願いをしてまわったのです。
たった一人の日系人が多くの票を獲得した結果、見事IOC総会では東京が過半数超えの34票に対し、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票と圧勝しました。
そして、1964年の東京オリンピック開催に繋がっていきます。
この1964年大会の開催により、アジア初で有色人種国初のオリンピック開催となりました。
日本は、白人による人種差別撤廃、植民地主義の撤回を目指して多くの犠牲を払い戦ってきました。
その日本でオリンピック開催をするという事は、有色人種も世界の一等国の仲間入りが果たせるという証明なのです。
オリンピックの開会式の開会宣言は、あの敗戦のご聖断を下した昭和天皇が行いました。
この開会宣言は、日本の先進国入りの宣言ととらえられるのかもしれません。
1964年というのは、1945年の敗戦からわずか19年後です。
1945年3月10日の東京大空襲で東京が焼野原になり、敗戦による心の傷も負った中で、わずか20年足らずでここまでの見事な復興を遂げ、オリンピック開催までこじつけた戦後の日本人の凄さを感じます。
現在は失われた20年と言われますが、20年あればここまで復興出来るという良い教訓にして、これからの日本も歩んでいってほしいと思います。