『須賀敦子の手紙 1975―1997年 友人への55通 』須賀 敦子 (著)を読んで | ・・・   旅と映画とB級グルメ と ちょっと本 のブログ

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『須賀敦子の手紙 1975―1997年 友人への55通 』須賀 敦子 (著)松家 仁之 (編集)

 

 

夫を亡くし、長いイタリア暮らしを経て、一九七一年に帰国した須賀敦子は、慶應大学国際センターの事務嘱託として働きはじめ、そこで日本文学を学ぶ留学生ジョエル・コーンと知り合い、彼の恋人であり、後に妻となる日本人女性スマと、心を許しあう仲となる
娘ほども年の離れた「おすまさん」に書く。怠け者で、まったく仕事をする気がなくて、と論文が書けないことを嘆き、「鏡にうつった私の顔はインテリ女みたいだったので心からぞっとして助けてくれというかんじでした」。イタリア政府から功労章を受けると、「私はクンショーよりも馬の方がほしいくらいだったのですが、そんなワガママはきいてもらえないらしくて」。故意に、アメリカにかたくなに背を向けて生きてきたことを残念がる。あるいは、イタリアを去って、自分はむだな年月を過ごしたのではな本書に収められているのは、一九七五年から亡くなる前年の一九九七年までに、スマとジョエルに向けて書かれた手紙である。まだ日本での立ち位置が定まらず、多くの迷いを抱えていた須賀敦子は、ここで驚くほど素直に胸の内をさらしている。受け取る側に、信頼しうる自然体の応対がなければ、ありえないことだろう。
話題は多岐に亘わたっている。メダカやゼラニウムの世話、季節や風景の移り変わり、大学の授業や教え子の様子、仕事で読んでいる本、そしてきわめつけは進行中の恋とその顛末(てんまつ)。くだけていながら破綻のない語調、須賀敦子風としか言いようのない巧みな擬音や比喩表現が随所に見られる。たとえば、一九八四年一月の手紙。 いかと恐れていたことを吐露。筆は少女のようにのびやかだ。 「私は少しだけさびしいクリスマス・お正月をすごしました。それは自分勝手にさびしいsituationをつくり出したのですから、別になんということもないのですが、人間生きているかぎり、さびしかったり、おもしろかったり、いろいろです。お料理をつくるときに、エイとコショウを入れるみたいに、今年はちょっと渋みを入れすぎたようです」
アメリカで暮らす二人の生活への関心と思いやりは終始かわらないものの、須賀敦子が人生の時間を割くべき対象は、しだいに文学の世界に定められていった。大学の専任になるために求められた博士論文を三年がかりで完成させる一方、「インテリ女」にならないよう自らを戒め、構造主義に浸ったイタリア人の論考に閉口して、「古典の簡潔さを求めること、簡潔な文章を書くことの勇気を持ちつづけたい」と誓う。
病を得て厳しい治療に入ったとき、須賀敦子は当時ハワイに暮らしていたスマをわざわざ呼び寄せて、身の周りの世話を頼んだ。巻末の対談で、スマは彼女を「なつく」人だったと評している。なつく力は、須賀文学の原典ともいえる放浪への憧れと不可分の要素だ。これらの手紙は、放たれた波のなかで身を持すための、貴重な浮沈子だったと言えるだろう。(大竹昭子 堀江敏幸 書評より)
スマとジョエルがフィレンツェ観光から帰るとで須賀さんが料理を作ってまってくれていました。「イタリアにいると料理がしたくなる」手早くおいしい。ペペロンチーニのバスタとか。ジャガイモにタラの料理の美味しかった。料理はとても上手でした。
(須賀敦子のこと スマ&ジョエル・コーンより)
ガンでの闘病生活なか、ガンバレということばとを下品と嘆き。「しっかり」「しっかりね」と混乱する病状の自分を励ましつづけます。
ことし一番泣ける本でしょうね。