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『ブルックリンコルム 』トビーン  著  栩木 伸明 訳読んで 映画も見る
『ブルックリンコルム 』監督ジョン・クローリー

 


時は1951年から2年。舞台はアイルランドの田舎町エニスコーシーとニューヨークのブルックリン。主人公は、エニスコーシーで母と姉と三人で暮らすアイリーシュ・レイシー。英国からの参戦要請を拒否し、第二次世界大戦に参戦しなかったアイルランドは、戦勝国の好景気から見放され景気も雇用もぱっとしなかった。いくら簿記の成績がよくても、売り子ではなく事務職員として働きたいと願う若い娘の働き場所はなかった。ちょうどアメリカから帰国していた神父の口利きでアイリーシュはブルックリンで働くことになる。
ブルックリンにはアイリッシュ・コミュニティーがあり、神父の紹介で下宿先を見つけたアイリーシュは昼は百貨店の売り子として働き、夜は簿記の学校(ブルックリンカレッジ)に通うことになった。異国の小さな同郷人の共同体の中での軋轢や階級意識に翻弄されたり、ホームシックに落ち込んだりしながらも、次第に新しい環境になじんでゆく主人公には、やがてイタリア移民のトニーという恋人もでき、封切りしたばかりの『雨に歌えば』を見たり、コニー・アイランドに海水浴に出かけたりと、アメリカ生活を謳歌するようになる。
ところが、思いもかけぬ出来事が起こり、アイリーシュは一時帰国することに。トニーのたっての願いを聞き入れ、秘密に結婚式を挙げたアイリーシュは船上の人となる。用が終わればすぐに取って返すことになっていたアイリーシュを待っていたのは、故郷の人びとの思いもかけぬ歓迎だった。アメリカナイズされ、自信に満ち溢れたヒロインは、器量よしの姉に劣らぬ美人になっていたのだ。以前ダンスパーティーで無視されたジムは今ではパブの経営者になっていた。彼からの求愛に心揺れるアイリーシュだったが、かつて働いていた店の主人に呼び出された彼女は、そこで今まで秘されていた事実を知らされる。
働き者で、向学心に溢れ、周囲の人びとへの気遣いを怠らない主人公は、直属上司や下宿屋の主人に気に入られ贔屓される。好意の贈与は当然その見返りを要求している。自分はどう振る舞えばいいのだろう。内省的で自分の行為を振り返らずにいられない主人公の心理描写が卓抜で、読者はどうなることやらとはらはらどきどきしながら彼女の優柔不断ぶりにつき合わされる。コルム・トビーンという作家は初めてだが、美しい姉を持つ、年頃の利発な娘の心理を実に鮮やかに活写している。
今一点。第二次世界大戦後のアイルランドの田舎町とニューヨークのブルックリンという二つの対称的な世界を描き分けることで、生き生きした時代の雰囲気がよく伝わってくる。離婚の文字を頭に浮かべた主人公がリズ・テーラーを思い出したり、ドジャースがまだブルックリンの人びとの誇りだったりした時代のアメリカ。百貨店で黒人がナイロンストッキングを買う事に好奇な目が注がれていた時代、ダンスフロアに「ジャッキー・ロビンソンの歌」が流れていた時代のアメリカだ。
年若い娘ならではの矜持や懼れ、自分をしっかり持っているようでいながら、流れに任せて自分を見失いがちな稚さがよく書けている。みなにちやほやされてすっかりのぼせ上がっていたアイリーシュが、母親も含めた田舎の蜘蛛の糸のように張り巡らされた情報網に絡めとられて身動きできなくなってゆく様子が、周囲の人間が善意であるだけに恐ろしく感じられ、かつての雇い主の悪意の奔出がかえって救いのように感じられてくる皮肉さなどほとんど秀逸とさえ言っていい。近頃目にした小説の中でいちばん面白く読めた。原書の惹句にいわく「出発と帰還、愛と喪失、自由意志と義務との間で迫られる残酷な選択をめぐる優しさあふれる物語」である。

アイリシュの移民の物語を思い出した。
『アンジェラの灰』フランク・マコート自身の子供時代の経験を語った作品。マコートはアイルランド系移民の子としてアメリカ合衆国(ブルックリン)に生まれたが、両親の経済的な困窮により、母国アイルランドに帰ることを決意し、1930年代、1940年代をアイルランドのリムリック市で過ごす。その当時の暮らしが骨太いタッチで描かれている。物語は、彼が結局アメリカに帰るための金を手にしたところで終わる。マコートは、これに続く時代の物語を『アンジェラの祈り』として書いている。
『アンジェラの祈り』を読むまでぴんとこなかった
ここでの鍵は軍隊だった。陸軍に入り、除隊後に復員兵援護法の適用を受けてニューヨーク大学(NYU)にもぐり込むのだ。それにしても、フランクの学歴は14歳までである。高校卒の資格はないので、ほんとうなら、いかに復員兵援護法があろうともかれの入学はありえない。1953年頃の話である。じつはここで重要な決定をしてくれたのが大学の事務局長だった。彼女の権限で、特別に仮の入学を許可されるのだ。1年間Bの成績を維持できれば正式の在学を認めるというのである。
 大学なんて、ほんとうに勉強したい若者がいれば、こうやって機会を与えてやる方がいいのかもしれないなあ。、こういうところはアメリカのよさだろう。後に彼が(ブルックリンカレッジ)の英語の教師になることになる。
アメリカに来たアイルランド人はアイリシュダンスがダサいと馬鹿にされるので外国人の前では絶対に踊らないみたいなところが面白い。アイルランド人には緑の服が国民カラーみたいですね。
 

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『すべての見えない光 』 アンソニー・ドーア 著 藤井 光 訳を読んで
ピュリツァー賞受賞 盲目の少女と孤児の少年の出会い
ラジオから聞こえる懐かしい声が、若いドイツ兵と盲目の少女の心をつなぐ。ピュリツァー賞受賞作。孤児院で幼い日を過ごし、ナチスドイツの技術兵となった少年。パリの博物館に勤める父のもとで育った、目の見えない少女。戦時下のフランス、サン・マロでの、二人の短い邂逅。そして彼らの運命を動かす伝説のダイヤモンド――。時代に翻弄される人々の苦闘を、彼らを包む自然の荘厳さとともに、温かな筆致で繊細に描く感動巨篇。
はじまりは一九四四年八月、フランス・ブルターニュ地方のサン・マロという海辺の町が舞台である。連合国軍とドイツ軍との戦いで破壊しつくされるこの町で、主人公のマリー=ロールとヴェルナーは出会うのだが、「第〇章」ではまだ二人は出会っていない。

空爆により破壊されたサン・マロの町
続く「第一章」で、時は十年遡る。パリのアパルトマンで父親と暮らすマリー=ロールは、六歳で視力を失う。ドイツの孤児院で育ったヴェルナーも、家族は妹だけ。戦争という非常時には、もっとも弱い立場に置かれる二人だ。
五百ページを超す長篇の中に、二人に流れる時間の断章が交互に配される。子供の泣き声や、鍵の束がたてる音。世界の感触が緊密に書き込まれる。博物館に勤めるマリー=ロールの父親は、娘が触って確かめられるようにパリとサン・マロ、二つの町の模型をつくる。この模型はナチスの財宝探しともかかわり、第三の人物を招き寄せることになるが、その細かな模型づくりを連想させる正確さで切り取り、配し直して、作者は自分の知らない戦時下の時間を再びいきいきと流れさせる。
別々の、小さな世界に生まれ育ったマリー=ロールとヴェルナーを引き寄せるのは、戦争と、外へ向けられた二人の好奇心である。ラジオ修理の技術を通して工学の才能を見出され、上級学校に進んだヴェルナーは思いがけず前線へ送り出され、やがてマリー=ロールの大叔父の家から発信されるレジスタンスの無線をとらえることになる。
刻一刻と戦局は苛酷さを増すのに、運命は二人を翻弄し続け、少年が少女に出会う決定的瞬間はなかなか訪れない。ともに過ごせる時間は、短くとも生の輝きにあふれている。苦しむことのみ多く、大きな歴史の流れにただのみこまれるしかなかったヴェル彼女が無線で朗読するヴェルヌの『海底二万哩』をきっかけに。歴史のどの時期にいたかということで、人生は大きく左右されます。それを人は運命だと言ったりしまナーの人生の、一点の明るさともなっている。ピュリツァー賞受賞作。
ラジオが世界とつながっていた時代、深夜に遠い国の違う言葉の放送を聞くことがヨーロッパの人々にとってのつながりになっていたのでしょうね。

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『須賀敦子の手紙 1975―1997年 友人への55通 』須賀 敦子 (著)松家 仁之 (編集)

 

 

夫を亡くし、長いイタリア暮らしを経て、一九七一年に帰国した須賀敦子は、慶應大学国際センターの事務嘱託として働きはじめ、そこで日本文学を学ぶ留学生ジョエル・コーンと知り合い、彼の恋人であり、後に妻となる日本人女性スマと、心を許しあう仲となる
娘ほども年の離れた「おすまさん」に書く。怠け者で、まったく仕事をする気がなくて、と論文が書けないことを嘆き、「鏡にうつった私の顔はインテリ女みたいだったので心からぞっとして助けてくれというかんじでした」。イタリア政府から功労章を受けると、「私はクンショーよりも馬の方がほしいくらいだったのですが、そんなワガママはきいてもらえないらしくて」。故意に、アメリカにかたくなに背を向けて生きてきたことを残念がる。あるいは、イタリアを去って、自分はむだな年月を過ごしたのではな本書に収められているのは、一九七五年から亡くなる前年の一九九七年までに、スマとジョエルに向けて書かれた手紙である。まだ日本での立ち位置が定まらず、多くの迷いを抱えていた須賀敦子は、ここで驚くほど素直に胸の内をさらしている。受け取る側に、信頼しうる自然体の応対がなければ、ありえないことだろう。
話題は多岐に亘わたっている。メダカやゼラニウムの世話、季節や風景の移り変わり、大学の授業や教え子の様子、仕事で読んでいる本、そしてきわめつけは進行中の恋とその顛末(てんまつ)。くだけていながら破綻のない語調、須賀敦子風としか言いようのない巧みな擬音や比喩表現が随所に見られる。たとえば、一九八四年一月の手紙。 いかと恐れていたことを吐露。筆は少女のようにのびやかだ。 「私は少しだけさびしいクリスマス・お正月をすごしました。それは自分勝手にさびしいsituationをつくり出したのですから、別になんということもないのですが、人間生きているかぎり、さびしかったり、おもしろかったり、いろいろです。お料理をつくるときに、エイとコショウを入れるみたいに、今年はちょっと渋みを入れすぎたようです」
アメリカで暮らす二人の生活への関心と思いやりは終始かわらないものの、須賀敦子が人生の時間を割くべき対象は、しだいに文学の世界に定められていった。大学の専任になるために求められた博士論文を三年がかりで完成させる一方、「インテリ女」にならないよう自らを戒め、構造主義に浸ったイタリア人の論考に閉口して、「古典の簡潔さを求めること、簡潔な文章を書くことの勇気を持ちつづけたい」と誓う。
病を得て厳しい治療に入ったとき、須賀敦子は当時ハワイに暮らしていたスマをわざわざ呼び寄せて、身の周りの世話を頼んだ。巻末の対談で、スマは彼女を「なつく」人だったと評している。なつく力は、須賀文学の原典ともいえる放浪への憧れと不可分の要素だ。これらの手紙は、放たれた波のなかで身を持すための、貴重な浮沈子だったと言えるだろう。(大竹昭子 堀江敏幸 書評より)
スマとジョエルがフィレンツェ観光から帰るとで須賀さんが料理を作ってまってくれていました。「イタリアにいると料理がしたくなる」手早くおいしい。ペペロンチーニのバスタとか。ジャガイモにタラの料理の美味しかった。料理はとても上手でした。
(須賀敦子のこと スマ&ジョエル・コーンより)
ガンでの闘病生活なか、ガンバレということばとを下品と嘆き。「しっかり」「しっかりね」と混乱する病状の自分を励ましつづけます。
ことし一番泣ける本でしょうね。

 

 

 

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