「いいえ。 秘書として当然の仕事ですから、」
萌香はさらりとそう言った。
「・・あたしも社長の秘書をさせていただいていましたけど。 社長は気を遣って、あたしを泊りがけの出張には連れて行かなかったし、」
ゆうこはふっと笑った。
「え?」
「いちおう、嫁入り前の娘だったんで。 泊りがけとなると、ヘンな噂が立ったりするといけないと社長が気遣ってくださったんだと思います。 だから、主人が栗栖さんを泊りがけの出張にも平気で連れて行くので、気にしていたんです。 栗栖さんはもう結婚もしたんだしって。 斯波さんにも申し訳なくて。」
「・・そんなこと、ないです。 彼もわかってくれていますから・・・」
「斯波さんは心の広い方ですから。 でも、そんなんしてる主人は、あたしが社長のことばかり気を遣うのがおもしろくなくて。 仕事をやめさせられてしまいましたから。」
ゆうこはクスっと笑った。
「え・・」
「二人目を妊娠していた時に、経過がよくなくて。 仕事を少し休んでしまったんです。 その後、復帰しようとしたんですけど。 主人が無理をしないで欲しいって言って。 あたしを引き止めてくださった社長とケンカってほどではないんですけど。 ちょっと気まずい感じになってしまって。 真太郎さんまで巻き込んで、一時は険悪な雰囲気になってしまって。 主人はもう仕事を辞めて、家庭に専念して欲しいと言いました。 本当に迷いましたけど。
あたしは仕事がそんなにできるわけではなかったので、最後は家庭で主婦をする道を選びましたけど・・・。 あの時は本当に悩みました・・」
ゆうこはそのときのことを思い出していた。
萌香はいきなりそんな話をし始めたゆうこは
志藤から自分の話を聞いているのではないか、とピンときた。
「秘書は仕事上のことはもちろん、身の回りのお世話もありますし。 主人はヤキモチ妬きだったので、それが耐えられなかったようです。」
ゆうこの笑顔に
「・・奥さまを大事にされているんですよね・・本部長は。」
萌香も笑顔になった。
「斯波さんだって同じです。」
「え・・」
「きっと。 主人があなたを連れまわすことをよく思ってらっしゃらないでしょう。 あの人は本当にわがままだから・・」
「そんな、」
「主人からあなたが主人の秘書を続けたいとおっしゃってくれていると聞きました。 ・・でも、あたしは、あまり賛成はできません。」
「・・奥さま・・」
「秘書は本当に気苦労も多いし、雑用も多いし。 忙しい仕事ですから。 栗栖さんはそのほかに事業部の仕事をされているし、その忙しさはあたしの比ではないと思います。 主人のことをそこまで思って下さるのはありがたいですが、やっぱり・・・これから子供を産んで、育てながらの仕事はもっともっと大変です。 事業部に残って、斯波さんのサポートをしてあげてくださいませんか、」
ゆうこはこんなことを口にしに
萌香のところにやって来たことは
もちろん志藤には内緒だった。
「一番は・・栗栖さんが幸せな家庭を築いていくことです。 斯波さんがどう思われるかはわかりませんが、きっと栗栖さんに事業部にいてもらって仕事をして欲しいと思ってると思います。」
萌香は
ゆうこの心遣いが
びんびんと心に響いてきた。
「奥様は・・私の過去のことはご存知でしょうが、」
小さな声でそう言った。
「・・人間として、女として最低な生活を送ってきたあたしを救ってくれたのはもちろん彼と、本部長だと思っています。」
萌香は弱々しくもきっぱりとそう言った。
「生意気で勝手ばかりしていた私を、本部長は見捨てずに信じてくださって。 本当にお世話になったと思っています。 人から信じられることが、こんなに嬉しいことなんだって・・・生まれてきて初めて思いました。 私はそのときからどこまでも本部長と一緒に仕事をさせていただこうと、心に決めました。」
「栗栖さん、」
「本部長は心から尊敬をできる方です。 仕事ができるだけではなく、いつも部下のことを先に考えてくださって、私はたくさんのことを本部長から学ばせていただきました。 仕事を続ける限り、本部長のお仕事をサポートさせていただきたいと、思っていました。」
そんなにも
志藤のことを尊敬し心を開いてくれている彼女に
ゆうこは一瞬、鳥肌が立つほど感動してしまった。
それは
自分が北都社長に抱いていた気持ちと
全く同じであったからだった。
「彼にはまだ話をしていませんが。 私からきちんと話をします。 彼がどう思うか、わかりませんが。」
萌香の決意が伝わった。
「栗栖さん、」
ゆうこは言葉が続けられなかった。
「奥さまにこんなことを申し上げるのは・・心苦しいですが。 私は本部長のために仕事をしていきたいと思っています。 彼のために、という気持ちとは全く別で。 仕事に関しては、そう思っています。」
自分と違うのは
萌香は何よりも『仕事』を優先に考えていることだった。
萌香の志藤に対する想いに、ゆうこは少し複雑でしたが・・
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