『あのこと』
さえなければ。
一瞬
脳裏をよぎってしまった。
もう
そんな虚しいことだけは
考えないようにしようと思ったのに。
「もう。 思い出せないんです。 その頃の気持ちを。」
志藤は本音をチラリと見せた。
「このまま・・・何もせずに終わるつもりか?」
北都はタバコをくわえた。
志藤は
自分がこの仕草を見せても
決して
慌ててライターを探して火を点けることはしない。
秘書となっても
決してへつらうこともなく。
自分の道をいっている。
そこも
北都は彼を買っていた。
「今のままでは、おまえはどんどんダメになる。 こんなことでダメになるような男じゃないだろう、」
「買いかぶりすぎです。 ぼくはこの程度の男ですから、」
ふっと笑った。
「いや。」
北都はタバコに火をつけて、少し厳しい声で否定した。
ハッとして彼を見る。
「おれは自分の目が間違っているとは思えない。 今までそうやって自信を持って決断をしてきた。 おまえがそれを否定することはおれをも否定することだ、」
ゾッとするような
怖い目だった。
「社長、」
「この事業を何とかして成功させたい。 そのためにはおまえが必要だ。 他の誰にも任せるつもりはない。」
そんなこと
言わないでほしい。
志藤は少しうな垂れた。
「おまえをこのまま潰すつもりもない。 おまえがこれから生きる道はここにある。」
この自信が
大社長と恐れられる
北都の全てなのだろう。
無口だが
その存在感は圧倒的で。
追いつめられそうな自分と
迷って
その場で佇む自分がいて。
「1週間。 時間をいただけますか。」
志藤は重い口を開いた。
「今度はきちんと返事をしてもらえるんだろうな、」
「返事は・・します。 でも、まだ承知をしたわけではありません。 社長のお話だとここを離れたらもう戻っては来れないようですから。 ・・ここを離れたくない理由は社長もご存知でしょうが。 その辺のところもご理解ください、」
彼の言葉に
北都は小さく頷いた。
「わかった。 いい返事を待っている。」
「社長、明日は朝からいらっしゃるとお聞きしたんですが。 この時間でも戻っていらっしゃってないのに、大丈夫でしょうか。」
ゆうこは時計を見ながら心配をした。
「連絡が取れないので。 まあ、大丈夫でしょうが。」
真太郎は言った。
「今朝、いきなり大阪支社へ行くとおっしゃって。 あたしも聞いていなかったものですから。 どうしたんでしょう、」
「ぼくもわかりません。 全然聞いていなかったし、」
父が
何かをしようとしていることはわかったが
必要以上に説明をしてくれないことが
もどかしく思えた。
大社長が一気に動き始めました・・