バッハの最高傑作は?と問われれば意見は色々でしょうが、教育的な作品、芸術的な作品、宮廷勤務時代の貴族の娯楽的作品、そして宗教的な作品などに分けて分類することができ、宗教的な作品としては何といってもマタイ受難曲がバッハの宗教的な作品群の中で規模も内容も特に優れています。

 

ルター以降の音楽修辞法に加えて、バッハ独自の様々な描写表現を駆使したマタイ受難曲は非常に興味がそそられる箇所が多く、現代人が作曲する上で伝統という意味と純粋な技法という意味で大いに価値のある作品であると言えます。

 

 

今回は最初の合唱「来たれ,娘たちよ。われと共に嘆け」の冒頭を少しだけアナリーゼしてみましょう。

 

 


〇前置き

マタイ受難曲で面倒なのは外国の宗教の内容なので歌詞がドイツ語なので何を言っているのかわからず、にもかかわらずドイツ語の歌詞の内容やキリスト教の話を理解していないと音楽の技法も理解できないという点です。

 

本格的に勉強するならドイツの単語1つ1つを調べて日本語や英語に翻訳する必要があります。

 

さて1曲目は言ってみればアニメや映画などの主題歌的なオープニング曲でバッハの中では長く、二重合唱で規模も大きい曲になります。

 

日本語訳の歌詞を見てみましょう。


来たれ、娘たちよ。われと共に嘆け。
見よ。誰を?

花婿を。
見よ。どのような?
子羊のような。
見よ。何を?
彼の忍耐を。
見よ。どこを?
私たちの罪を。
愛と慈しみのために木の十字架を自ら担ぐ彼を見よ。

 


おぉ。神の子羊、
罪がないのに十字架の上で殺されて、

いつでも耐えた。

あなたは全ての罪を負っているが、
そうでなければ私たちは絶望してしまう。
おぉ。イエスよ。我らを憐れんで下さい。

 

これはイエスがゴルダゴダの丘で十字架に架けられて殺される直前の場面の内容であることがわかります。

死刑に使う十字架を罪人自らに運ばせるわけです。

 

 

 

 

〇アナリーゼ

 

 

 

 

冒頭~

 

楽譜は曲の冒頭からです。場面としてはイエスがローマ人に拷問を受けてボロボロになり、フラフラな足取りで思い十字架を背負ってゴルゴダの丘を登っていくシーンですが、バッハをそれを巧みに描写しています。

 

 

色々な解釈がありますが、まず12/8拍子はイエスの重苦しい足取りを表現していると言われています。速めのテンポで演奏する指揮者もいますが、ゆっくり歩くくらいテンポの方が場面に合っていると個人的には思います。

4/4の三連符のようにも聞こえるのでゆっくり、のっそり歩く印象を受けます。

 

 

またトニックペダルの上で旋律や和声の調が非常に揺らいでいる点が興味深いです。KEY-Emでディグリーを付ければ上記の通りですが、最初のⅠmのあとすぐに下属調のKEY-Amへ転じ、さらに属調のKEY-Bmに転じてKEY-EmのⅤ7に戻ってきますが冒頭からとても転調的な動きと言えます。

 

 

メロディーもフルート1とオーボエ1のトップの音が1小節目はソが♮なのに2小節目でいきなりソ#になり、同じく2小節目ではVn1はド♮なのに、フルート1とオーボエ1ではドが#になっています。

 

 

1小節目のB7の箇所でソが#しているので、KEY-Eっぽく聞こえますが実際にド#(9th)とソ#(13th)がいるのでBミクソとなりKEY-Eの響きです。

開始からいきなり同主長調に揺れています。

 

 

2小節目のAmではドが♮ですが、すぐ後のEmではドが#しているのでこれは主調のKEY-Emのトニックではなく、後ろのKEY-Bmの下属和音であることがわかります。

 

 

さらに3小節目のF#7の箇所ではレ#(13t)とソ#(9th)が聞こえ、ソ#の方はクロマティックオルタレーションですぐにソ♮(KEY-Bm)が鳴りますが、最後のソ♮が出てくるまではミクソのように響き、つまりKEY-B出身のⅤにも聞こえます。

 

 

上の画像の一番下に出身キーが書いてありますが、最初の3小節はEm(KEY-Em)→B7(KEY-E)→E7(KEY-Ahm)→Am(KEY-Em)→Em(KEY-Bm)→F#7(KEY-B、KEY-Bm)→B7(KEY-Em)となって借用の連続で同じ出身キーの和音が連続して続くことはありません。

hm=ハーモニックマイナー

 

こういう短いのは転調と言わずに借用和音扱いになりますが、時間が短いか長いかだけの違いなのである意味で転調と言ってもよいかもしれません(実際部分転調と呼ぶ人もいます)。つまり1和音ごとに転調していて調は極めて不安定です。

 

 

もっともバッハはバロック時代の人なので後期ロマン派に見られるような広い転調領域など望むべくもなくいわゆる近親調やその周辺のみだけですが、バッハの時代なりの和声法できわめて不安定な響きを作り出しています。全部の和音の出身キーが違うと言うのは時代を考えればかなり前衛的な手法と言えるかもしれません。

 

私にはこれがイエスのフラフラ歩く状況を表現しているように感じます。

 

 

続きを見てみましょう。

 

 

 

4小節目~

 

次も似たような手法で書かれています。やはりレとレ#、ファとファ#などが入り混じって不安定な響きになっています。6小節目のE mコード到達するまではすべてのコードの出身キーが毎回変わるっているのがわかります。

 

面白いのは5小節目の①と②の部分で①のレ#はKEY-Emの導音として取れますが、普通に考えると②のソ#はM7となります。

 

5小節目のAmはKEY-EmのⅣであり、またKEY-AmのⅠとも考えれば②のソはKEY-Amの導音とも取れますが、不思議な響きです。①も②も次の音へのクロマティックオルタレーションと解釈もできますが、いずれにしてもバッハがイエスのフラフラの不安定な足取りを調や旋律の不安定さで表現しようとしていると考えるとなぜこんな不安定な響きにしているのか?に納得がいきます。

 

 

 

6小節目の音階上行はイエスがゴルゴダの丘への坂道へ上る描写で、最後はC音はChrist(キリスト)のCであると言う人がいます。

 

本当のところはバッハに聞いてみないとわかりませんが、God=G(ソ)やDeus=D(レ)のような音楽修辞法的な用法はバロック時代の曲によく見られる表現なのであながち間違っているとも言えません。

 

 

こんな感じで合唱が入ってくる前の序奏は不安定なハーモニーを響かせながら、12/8拍子ののっそりと歩みで進んでいきます。イエスがフラフラ苦しそうに歩きながら坂道を上っていく描写を上手に表現しています。

 

 

〇6声対位法

僅か7小節しかまだ見ていませんが、合唱が入ってくる16小節目までは6声対位法で書かれています。

 

和声書法に慣れきっている人にとっては6声対位法は新鮮に響くかもしれませんし、マタイ全体を通しての対位法的な各種の書法は現代の我々にとっても参考になる用法が非常にたくさんあります。

 

 

〇まとめ

楽器はフルート2本、オーボエ2本、ヴァイオリンⅠ、ヴァイオリンⅡ、ヴィオラ、通奏低音としてオルガンというオーケストラと呼ぶには小さい編成ですが(バロック時代にはまだ古典期以降のオーケストラ編成はありません)、こういうった6声対位法の書法は現代人にとっても示唆に富んだものであり、近代の管弦楽法でアレンジすればもっと豊かな表現が可能なはずです。

 

 

またこれはバッハに限ったことではなくベートーヴェンやモーツァルトの作品にもよくあるのですが当時の楽器が未発達だったために出せなかった音や鳴らせなかったフレーズを「もし楽器が現代と同じなら大作曲家たちはこうしたはずだ」という現代人なりの解釈で楽器を増やしたり、フレーズを書き換えているものは非常にたくさんあります。

 

これについては賛否両論で私個人としては当時の音をそのまま鳴らす方がいいんじゃないかと思いますが、ロマン期から現代に架けてはよく行われてきたことでした。

 

バッハのマタイ受難曲もYouTubeなどの動画で見ると、普通にバッハの楽譜のには存在しない楽器が登場していることがあります。この辺は割り引いて聞くしかありません。

 

 

また表現したい情景描写を音楽で如何に表現するか?という技法についてもマタイ受難曲は目を見張るものがあります。

 

特に面白いのは修辞法と不協和と歌詞との関係性でしょうか。ここでは音楽修辞法的な話がまだ全然登場していませんが、もちろん先を見ていくとそういった表現はたくさん登場し、加えて今回のアナリーゼで見てきたような調の揺らぎや旋律の不安定のように修辞法以外のバッハ独自のいわゆるBGM的な表現の手法は非常にたくさんあり語るべき内容には枚挙に暇がありません。

 

 

 

マタイ受難曲に関してはいくらでもネタがありますので、また機会があれば続きを書いてみたいと思っています。

 

 


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