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最近バルトーク研究、東ヨーロッパ民族音楽研究と並行して、日本の音楽(雅楽、箏曲、民謡など)を改めて見直しているのですが、日本っぽい曲を作るのに参考になるような本をご紹介したいと思います。

 

 

「日本和声~そのしくみと編・作曲へのアプロー チ」という本で既に絶版となっており図書館や持っている人から借りるしかないのが現状ですが(amazonで¥32,000-で売ってます……元値は¥2,900-です)、日本の陽旋法と陰旋法を元にしたオリジナル和声理論を体系化した本で、CDを聴いたり、日本の音階がわかっただけでは作れない、あるいはある程度体系化した理論的な手引きが欲しいという方にお勧めです。

 

 

日本の音楽は、それが何であれ、わりと呂旋法、律旋法、陽旋法、陰旋法さえ知っていればなんとなく作れてしまうのですが(あとは楽器とリズムも)、この日本和声では陽旋法、陰旋法にフォーカスを当てて、音階の説明からそれに基づく和音や(西洋音楽理論でいうところの)和音連結、転調、借用和音や偶成和音についてオリジナル理論が述べられています。

 

 

西洋の音楽において長音階と短音階を元にして行われているいわゆる音楽理論を、陽旋法、陰旋法において似たようなアプローチをしているわけですが、日本っぽい曲を作るときの技法の習得には役に立ちます。やろうと思えばこの本に習って呂旋法、律旋法でも同じことが可能なので理論体系化することが可能です。

 

 

やや西洋の和声からの影響が強い(連続8度の禁止、第3音の重複、共通音の保留云々など)気もしますが、逆にこれをメリットと感じる方もいるかもしれません。日本の「和声~理論と実習」みたいなアプローチで書かれています。

 

日本の音楽については、言うまでもないことですが、古来の日本の音楽に西洋の音楽理論がそのまま当てはまるはずもなく、既に調律からして異なり、西洋の全音階システムや平均率に基づく半音階とは全く相容れない独自の音楽が日本にはあるため、88鍵盤のピアノでそっくりそのまま表現することは出来ませんし、理論的なアプローチも「和声」という側面では箏曲や雅楽を自分で研究していくしかありません。

 

 

もちろんそれで私個人としては十分納得出来るのですが、耳や感覚だけで作るのが苦手で理論的な拠り所が欲しいという方にとっては素晴らしい本ではないかと思います。

 

 

 

著者の小山清茂氏は(もう一人の中西覚氏はご存命のようです)2009年に亡くなられた日本的な作風を西洋の器楽体系で表現した方で聴くとそのまま日本民謡・神楽・祭囃しをオーケストラでやっているような曲がたくさんあります。

 

 

分かりやすい意味での日本民謡の活用であり、タイトルもすべてがそうだという訳ではありませんが、【音詩「木曾路」】【田植うた】【管弦楽のための信濃囃子】のような日本的なタイトルが多いです。

 

 

ロシア五人と呼ばれる作曲家たちが一枚岩だったわけではありませんが、ドイツ・オーストリア圏の音楽の真似ではなく、ロシア的な音楽を指向したムソグルスキーたち、チェコ民謡を多用したドボルザーク、フィンランドらしさを求めたシベリウス、スペインらしさを表現したグラドナスやファリャ、ハンガリー民謡(だけではないですが)を多いに自分の作品に取り入れたバルトーク(コダーイも)のように、ドイツ・オーストリア圏の音楽を模倣するだけでなく、単位は国だったり個人だったりしますが、自分(たち)の音楽性を求めた作曲家という意味では、日本和声の著者の小山清茂氏も国民楽派に入れてもいいのかもと思います。

 

 

 

そういう意味ではドビュッシーやラヴェルもドイツ・オーストリア圏の影響から見事抜け出してフランスらしさを表現しているので、ドビュッシーやラヴェルを国民楽派とは言いませんが、ドイツやオーストリアの影響を脱して国単位での音楽性の表現という点で成功していると言えます。

 

 

クラシック音楽は古くはイタリア圏、バッハ以降はドイツ・オーストリア圏が長らく最強で、バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスなど、クラシック音楽の中心地はドイツやオーストリアでした。音楽の都ウィーンというのは伊達ではなく、今に至るまでもの凄い影響力を持っています。

 

 

バッハやベートーヴェンをガン無視出来る演奏家や作曲家がどのくらいいるのかわかりませんが(日本にはいない気がしますが)、少なくとも私の回りにはバッハやベートーヴェンたちドイツ・オーストリア圏の作品を完全無視してきた人はいません(あくまでクラシックをやる人でという意味です)。

 

 

これは他国でも同じで、最初は模倣で良かったのかもしれませんが、段々とただ真似ているだけでは駄目だという意識が生まれて、それぞれの国の作曲家たちが自分の、あるいは自国のオリジナリティーを求め始めます。

 

 

 

 

武満徹氏の作品が私は大好きですが、ノヴェンバーステップスのような琵琶や尺八を使った誰にでも分かりやすい日本らしさ、露骨な日本らしさではなくって、もっと後期のクラシックのオーケストラの中で一般に用いられる楽器を使いつつも、本質的な意味において日本の無拍子や和声感を背景に作られている武満徹氏の音楽の方が個人的には好みです。

 

評価は個人差があるでしょうが、少なくともこれは西洋のあらゆる作曲家たちとの大きな差違と言えます。

 

ノヴェンバーステップスは単に日本の楽器を使うという単純な民族表現を越えた素晴らしい作品であることは理解しているつもりですが、日本らしさを求める音楽家たちがヴァイオリンやフルートとやギターや打楽器の代わりに三味線、箏、和太鼓、琵琶、尺八、笙、篳篥etc…などの和楽器使い(それ自体は別に何も悪くないですが)、それで「日本らしさを表現してま~す!」、みたいな安直なスタイルに永続性はないし、本質的な芸術の高度さや深みもないように私には思えます。

 

 

大抵そのような場合は和声(コード進行)やリズムや曲の構成は外国のスタイルそのままで、楽器だけを安直に日本のものに差し替えているだけだからです。

 

ギターを三味線に差し替えたり、フルートを龍笛に差し替えたり、ドラムセットを和太鼓に差し替えたりするなど、日本の楽器を使うこと自体は誰にでも出来るわけで、それ自体は何も特別ではなく、その部分は芸術性の高度さとはあまり関係がない気がします。武満徹氏は海外で評価が高いですが、表面的な意味ではなくて本質的な意味で日本的な作風が評価されているのではないかとも思います。

 

 

三味線やお琴や和太鼓を使ってクラシックやロックをやっても、曲のリズム、和声(コード進行)、楽器の用法、曲の構成はまんまドイツ・オーストリア圏だったり、アメリカやイギリスの洋楽の模倣だったら、それは本当の意味で日本らしいのか?ちょっと浅はかなんじゃないか?それに見世物以外の芸術性はあるのか?永続性はあるのか?と感じてしまうわけで、もっと根本的に本質的に深い意味において自分たちの音楽というものを考えて進歩する必要があり、それが叶えば例えオーケストラという西洋の演奏形態を使用しても十分に日本的な音楽性は表現出来るはずですし、現に武満徹氏はそれをやってのけています。

 

 

 

程度の差はありますが、ムソグルスキーやバルトークもそれに成功しており、それを「どうやって」やっているのか?に目下関心があります。

 

 


 

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例えばバルトークの「15のハンガリー農民歌」(Sz.71)の第1曲を見てみましょう。これはハンガリーの素朴で単純な5音音階で出来た短い民謡(オクターブで弾いているレレララレレー、ミーレドレドラー~→というフレーズ)にバルトークがオリジナルの和声を付けて自分の作品としているもので、作曲というよりは編曲的性質が強いハンガリー民謡の用法の一つですが、如何にも素朴な農民歌に、バルトークらしい和声が付けられています。興味があればアナリーゼしてみて下さい。バルトークの語法の理解の助けになります。

 

 

この曲の和声的な高度さという意味ではバルトークの作品の中では中の下くらいの難しさですが、ドイツ・オーストリア圏の音楽を背景にするのではなく、自国のハンガリーを背景にしつつオリジナリティーを獲得し始めている作品であり、聴いて如何にも民謡という感じはしません。

 

 

バルトークがもっと年を重ねて民族音楽が内包している和声やその他の特性が完全にバルトークの中に溶け込んでいくと、弦チェレやオケコンや2台のピアノと打楽器のためのソナタや後期の弦楽四重奏のような、聴いた感じは全然民族音楽らしさは欠片も感じないのに、その本質には民族音楽が背景にあるという作風になっていきます。

 

 

和声法確立以前のペロタンやジョスカンたちの作品が、長い年月を通してバロックや古典派や初期ロマン派たちの作曲家たちによって進歩してきた結果が、ブラームスやリヒャルト・シュトラウスやワーグナーたちの後期ロマン派の作風なわけですが、それなら同じようにハンガリー民謡が長い年月を掛けて進歩したら、なんらかの形を持っているはずであり、実際にそれをやっているのがバルトークであるというわけです。

 

 

もっともバルトークの場合はその「長い年月」を一気に進めてしまっているわけですが、土台をドイツ・オーストリア圏に求めていないという点においては多いに賛同出来ます。表現は乱暴かもしれませんが「オレはドイツ人じゃない、ハンガリー人だ。だから作曲においてハンガリーをバックボーンに置く」というのがバルトークの言い分であり、多くの国民楽派や近代フランスの作曲家の言い分でもあったと思います。

 

 

いつまでもドイツ人やオーストリア人のスタイルを真似て書くのは嫌だというのは、近代における世界各地の作曲家たちに潜在的にあった感情であり、その最もわかりやすい現れが国民楽派やバルトークやドビュッシーのような存在なのでしょう。

 

 

もしそれが出来るなら、私もドイツ人でもオーストリア人でもフランス人でもロシア人でもフィンランド人でもないわけですから、日本にバックボーンを置いてもいいわけです。

 

 

ただ私は別にどうしても日本にバックボーンをおきたいわけではなく、他人の真似というのが嫌になってきたので、何か自分の作品が作りたいと思いで色々見て回っている感じです。

 

 

仕事は別として、雅楽や祭り囃子のような露骨なわかりやす過ぎる日本民謡的な音楽を作るのは趣味ではありませんし、ドイツ・オーストリア、近代フランス、ロシア、スペイン、ハンガリー、チェコ、などの真似がしたいわけではありません。

 

 

それらを低いレベルではありますが真似することは出来ますし、楽譜をパラパラ見て和声や形式や展開などの構造をアナリーゼすることも、多くの音楽家の方が普通に出来るように可能ですが、それはちょっと勉強すれば誰にでも出来ることであって、特にどうということはありません。

 

それらはBGMのお仕事で純粋な職人的技術として役には立っていますが、言ってみればただの物真似であって、バッハでもベートーヴェンでもドビュッシーでもラヴェルでもバルトークでもブラームスでもショパンでもラフマニノフでも何でも良いですが、それらの影響から全然出ていないのが最近は嫌になってきました。

 

 

ブラームスがバッハやベートーヴェンをお手本にするのは素晴らしいと思いますが、私がバッハやベートーヴェンの真似をしても個人的にはなんか違う、と思ってしまうわけで、対象がドビュッシーやラヴェルでもラフマニノフやプロコフィエフでも、誰であっても、なんか違うと思ってしまいます。

 

 

私と同じ悩みを持って、首尾良くそれらを乗り越えた先人たちの軌跡を辿って研究したり、何処かにヒントは転がっていないかと彷徨っているわけですが、なかなかこれが楽しくもあり、難しくもあります。

 

 

手広く色々見て行くとためになることはかなりあって、自分の成長にも繋がっていくので、もっと色々と勉強してみたいと思います。

 

最後までお読み頂き有り難う御座いました。



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