「岩剣城」。
このやたらと聞いただけで険しさが伝わって来る名前の城が
島津義弘の初陣を飾った事で有名な岩剣合戦の舞台となった場所である。
鹿児島市内から10号線沿いに錦江湾の向こう側に浮かぶ雄大な桜島を眺めながら
重富を目指してひた走る。
それにしても朝日に照らされる桜島は清々しい。
鹿児島に来て桜島を眺める度に何故幕末に日本を動かす人物が生まれて来たのかが
なんとなく分かる様な気がするのは私だけではないだろう。
と、20分程で岩剣城がある重富へ到着。
道に迷う事無く「重富小学校(平松城跡)」の案内標識を発見する事が出来た。
そしてふと右手を見上げてみると・・・
あ、間違いない!
あれが岩剣城だ!!
一眼右端に見える山が「岩剣城」。
標識通りに道を曲がると小学校らしい建物が見えて来た。
ここが「平松城跡」である。
急峻な岩剣城が後に日常生活に困る様になった島津義弘が麓に築いた城。
うっかり見落としてしまいそうだが、普通の小学校の石垣かと思いきや
これが平松城の石垣。
野面積みである。
・・・と、誰もいないと思っていたら向こう側で一眼レフのシャッター音が聞こえて来るではないか。
よく見ると男の人が一人平松城跡の説明書きと思われるモノを写真に撮っている。
むむむ。
まさか自分の他にも岩剣城を見に来ている人がいるとは。
だいたい私が訪れる南九州の城跡には誰もいない事が多いのに。(鹿児島城、飫肥城を除く)
ちょっと驚いた。
この小学校の正門は旧鹿児島県庁の正門を譲り受けたものらしいと聞いていたので
とりあえずパシャパシャ写真を撮っていると・・・
その人から声をかけられた。
「岩剣神社の場所を知っていますか?」との事だった。
おー。そこはこの後で私も行こうと思っていた場所ではないか。
話を聞いてみると、案内地図を見て探してみたのだけど分からなかったそうだ。
私もiPhoneのGoogle マップを使って検索してみたが、拡大地図には神社の場所へ続く道が載っていない。
結局お互いもう少し探してみましょう、という話になりその場で分かれたのだが。
小学校の向かいには平松城や岩剣城についての説明書きがあり、
付近の地図もあるにはあるのだが、実際に歩いてみるとどの道を指しているのか分かりにくいのだ。
誰かこのブログを見かけた姶良町役場の方がいらっしゃったら検討して欲しい・・・
地図は分かりにくかったが、歴史の説明書きは分かりやすかった。
近隣の史跡についても書かれておりグッド♪
岩剣城の麓にある「岩剣神社」を探索することにした。
先ほどの地図を頼りに「この辺で曲がるのかな?」と迷いに迷いながら彷徨い歩く。
結局全部違ったのだが(笑)
諦めて近くの方に声を掛けて尋ねてみた。
多分、何度か同じ様に岩剣神社の場所を尋ねられているのだろう。
「ああ、またか。」といった慣れた感じで教えてくれた。
今から出掛けるから近くまで連れて行ってあげようとも言っていただいたが
申し訳なくてお断りした。
けど、いい方だった。
南九州の方は本当にいい人ばかり。
結局平松城から左に5分程歩いた場所に小さな川が流れており、
その川沿いに岩剣城を目印に歩いて行くと、これまた小さな石の橋が見えて来る。
その橋を渡ると・・・小さな鳥居が見えて来た。
これが岩剣神社である。
(先ほど平松城跡で岩剣神社の道を尋ねられた人が先に神社に到着していた。)
この神社の祭神は大己貴命(おおあなむちのみこ)。
島根県の出雲大社の祭神である大国主神(おおくにぬし)の事である。
神社の説明書きによると、
「島津貴久(義弘のお父さん)が渋谷一族を岩剣城に攻めた時、
この戦いに勝利を収めたならば、毎年例祭日に神舞を奉納しようと願いを立てた所、
その夜の内に渋谷勢は逃れ去ったので、翌日貴久は城に入る事が出来た」
というもの。
島津義弘は平松城に在城の頃、しばしば参詣し、神舞を奉納していたらしい。
ここで義弘公が神舞を奉納したのかと思うと・・・なんだかすごい場所なのでは?
いろいろ調べている中で、
この岩剣神社から岩剣城へ登るルートがあるらしいのだが・・・
よく分からない。
かなり危険らしい事が書いてあったので無理はしなかったけど。
誰か・・・登った人がいたら感想を教えて欲しい。
と言うか、遺構も結構残っているらしい事が書いてあったので
ちょっと整備してくらたらいいのにな、なんて。
この岩剣城は忠良ー貴久ー義久・義弘の島津家三代が参戦した戦い。
かなり豪華な顔ぶれなんじゃないの?
しかも初めて鉄砲を使った戦いだとも言われていて
そんなプレッシャーのかかる初陣を勝利で飾った島津義弘の
華々しいデビューの戦いでもあるのだ。
前々からどうしても訪れてみたかった場所。
思い切って訪れてみて本当に良かった!