天守閣や櫓など「建物」の遺構が無いと「お城」とは一般的に認識されないようである。
一番身近なお城である「大野城」。
100名城の一つに選ばれているれっきとした名城なのだが
福岡に住んでいても、名前に「城」が付くのを知っていても、
そこが「城」である事にみんな気付かない。
うきは市でオシャレなcafeと古道具屋さんを巡り、
日本の夏休みを絵に描いた様な朝倉の三連水車を「見学」した後、
![朝倉 三連水車](https://stat.ameba.jp/user_images/64/3d/10075783965_s.jpg?caw=800)
帰り道についつい「大野城」へ立ち寄ってしまった。
太宰府天満宮そばの赤い橋を渡り連歌屋方面へ。
あとは道なりにクネクネカーブを登って行く。
途中、中腹(第25カーブ付近)に「岩屋城」 の本丸への登り口が見えてくると
思わず止まりそうになったが既に夕方5時過ぎだったので泣く泣くそのまま通り過ぎ、
更にカーブをいくつか曲がり大野城山頂に到着した。
夕方だったが人がちらほら。
さすが100名城である。
途中にある太宰府口城門跡付近でカメラを手にした人を見かけたが、
間違いない。あの人も城マニアだ(笑)
ここを「城」だと知らずに訪れた人は脇にある現地の案内板を見て「実は凄い場所だったんだ」と気付く。
天守閣も櫓も日本人が「城」としてイメージするものは何も無く、
そこにあるのは高く積まれた尾根をぐるりと囲む様に作られた『土塁』のみ。
しかし普通はそれを「土塁」とは思わないのである。
この凄い土塁に気付かないなんて実に勿体ない。
改めて見てみると凄い土塁なのである。
高さもあり、これが尾根を囲んでいたと思うとかなり大規模なお城なのだ。(二重部分も含めると8km)
鳥瞰図を見ると大野城の西側から筑紫へいやの向かい側にある佐賀県鳥栖市にある基肄(きい)城までは水城(みずき)で結ばれているのが分かる。
太宰府を守る防衛ラインが敷かれていたのだ。
(岩屋城より)
中央部分に見える緑のラインが「水城」。
今はちょうど真ん中を九州道と国道3号線が水城を破る形で通っている。
ここを通る事が出来るか出来ないかで利便性が大きく変わる。
今でも交通の要所なのだ。
また、土塁だけでなく谷部分には石垣を用いて城壁としていた。
主な石垣として「百間石垣」「北石垣」「大石垣」等が点在している。
中でも『百間石垣(ひゃっけんいしがき)』は規模も大きく車道のすぐ脇にあるので見学しやすい。
大野城の山頂から宇美町側へ下る坂道の途中の川沿いに「ふと」現れる百間石垣。
(車で通る際は気付かずに通り過ぎるかもしれないので注意して走って欲しい。)
水害によって幾度も被害を受けたのだが復旧工事が進んでおり、現在は奇麗な状態で見る事が出来る。
百間石垣の隅石部分
また、城内には建物が70棟以上建っていたらしく、あちこちに礎石が点在している。
また、大野城には4ヶ所城門が設けられていたが山頂の駐車場がある場所から少し太宰府側へ下った所に
「大野城口城門跡」がある。
![大野城 城門入り口](https://stat.ameba.jp/user_images/ea/9c/10075776954_s.jpg?caw=800)
規模が最も大きい事から大野城の正門ではないかと考えられているそうだ。(現地案内板より)
礎石跡から二階建ての楼門形式の門だったと想定されており、
想像しているよりもはるかに立派な門だったらしい事が分かった。
現在は礎石だけが残る。
実はこの大野城口城門、昨年訪れた時は完全に雑草に覆われていて何がなんだか分からなかった。
おまけに蜂がブンブン飛び回っていた事もあり、近くに近づく事すらできなかったのだが、
今年に入って奇麗に整備されたらしくその姿を見る事が出来たのだ。
谷側に延びる石垣も1300年前の石垣としては立派なものである。(復元だと思うけれど)
この城門跡を見ていると史跡の保存を考えさせられてしまう。
水害などで大きな被害を被る事があるだけでなく、何も手入れせずに放置していればすぐに荒れ果ててしまう。
この名城を後世に伝えて行く為にもある程度の「人為的な補修」は必要となるのである。
そのままの状態で遺すのが一番望ましいのだがそれはやはり無理がある・・・か。
大野城は大野城市、太宰府市、糟屋郡宇美町の2市1町にまたがっているのでそれぞれが協力して守り継いで行って欲しいものである。
その為に私が出来る事は何だろう?
考えさせられてしまう。
近い事もあり、何度となく足を運んでいるがまだまだ見た事が無い遺構が沢山ある。
次の目標は「大石垣」。
近いうちに必ず・・・!
※写真は今までに何度か訪れた時のものを載せております。