破却された石垣 ~佐賀県・肥前名古屋城址~ | 旅するカメラ

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『兵どもが夢のあと』

ここを訪れる度にこの言葉を思い出す。
大手門石垣

佐賀県北部、玄界灘に面した鎮西町にある『肥前・名古屋城』。
小田原城攻めで北条氏を破り天下統一を果たした豊臣秀吉が 次なる領地拡大を求めて明国へ出兵する際の本営として建てられたお城。
当時、大阪城に次ぐ規模だったらしい。

実際歩いてみてもかなり大規模なお城だったと感じる。
それを九州の諸大名を総動員してたった5ヶ月で築城したのだから凄い。

この城跡の何に惹かれるかと言えば・・・“破却ぶり”ではないだろうか。
城内の至るところに崩れた石垣がゴロゴロと転がっている。
しかもそれは長い年月を経て自然に崩れたものとは違って、 人為的に徹底的に“破却”されたものである。
そして、その崩れた石垣をピカピカに積み上げ直すわけではなく ありのままの姿で崩壊しないように“補強”は行っているが、できるだけそのままの形を維持している所にまた惹かれるかもしれない。

5月の強い日差しの中、帽子を忘れてきた事を悔やみながら 広い名護屋城内を散策開始。

まず大手門。
大手門

「太閤道」と呼ばれる道が真っ直ぐに続き、登りきった右側に東出丸が広がる。
東出丸


何も無いのだが、それがいい。
左に進むと三の丸が広がる。 今は木々がうっそうと茂っているが当時はここにもたくさん館が建ち並び雅な風景だったそうだ。
三の丸
 

三の丸石垣

当時の雅さを思い起こすことが困難なほど崩れた石垣が無造作に転がる。

いつもはそのまま本丸へと向かうのだが、今回は「水手郭」へと向かう。
ほとんどの観光客は本丸へと向かうため誰もいない。

水手口

奥には復元中の石垣が。

水手郭発掘風景


ここはわざとだろうか?
復元の過程を示すためのように新しい石が組まれていた。



そして本丸へ。
かなり広い。
未だ発掘途中でブルーシートが掛けられている。
その一番奥に一段高くなったところが天守台。
本丸


ここに当時は5層7階建ての天守閣がそびえていた。
いまでもかなり眺めの良い場所だから、
天守閣の上からの眺めはさぞかしよかったことだろう。
天気が良い日は遠く対馬が見えるらしい。
この日は、天気はよかったのだが少し白くもやがかかっていたので
壱岐がぼんやりと見えていただけだったが。

天守台


なぜここに名護屋城をつくったのか。
それはこの地に実際に立ってみるとよく分かる。(と思う。) 



今は復元されている本丸だが
ここも徹底的に人為的に破却されている。
建物の遺構はもちろん何も残っていないのだが、
礎石の石さえもそのまま放置せずに、
その上に厚さ30センチ以上も盛り土を行い完全に埋め込んでいる。

名護屋城趾の説明書きによると、整備にあたってこの「破却」の状況をそのまま保存することとし、
盛り土の範囲を赤色舗装によって示すこととしたらしい。
きれいに復元して復興の櫓を建てるのもいいのだが、
こうした「出来るだけ何も行わない」保存というのも必要ではないかとふと考えてしまう。


また、本丸の一角には「埋められた石垣」の一部が掘出されて公開されている。
名護屋城は築城後に何らかの理由で大規模な改造が行われており、
その際に本丸西側の拡張工事に伴って完全に石垣が埋められていた築城当時の石垣との事。
埋められていたおかげで破却されずに残っていたのだ。

埋められた石垣

なかなか隅石もしっかりしている。
算木積みではないのでやはり少し前の組み方になるのかも。


一旦三の丸に降りて二の丸へと向かう。
その途中にある大きな石垣の山。
ここは三の丸隅櫓が立っていた櫓台跡であり、
名護屋城で一番大きな鏡石が使われている櫓台でもある。

三の丸櫓台跡

ここにある説明書きにも
「石垣修理にあたっては、最小限の解体範囲、追加石材にとどめ
 できる限り旧来の石垣を残すよう努めています。」
と小さくだが書かれていた。
その気の使い方がなんだか心を打つ。
意外とやるではなか。佐賀県。


二の丸の前には「本丸南西隅石垣」。

南東高石垣

ほとんどの石垣が崩れ落ち、土がむき出しになっている。

この部分は自然崩壊だけでなく、人為的に破壊したと推定される為に
修理した石垣全面に覆土を行い、破壊当時の状況をそのまま復元したもの。

実際にこの城で戦いがあったわけではないのに
なぜかいろいろと考えさせられる名護屋城。
晴れた日に訪れてもなぜか心が晴れる事はない。

破却された石垣達が当時の人々の思いを閉じ込めたまま
今の私たちに何かを語りかけているからだろうか。

隅石


三の丸櫓台石垣


石垣達


崩れた石垣







のどか


今はただ
静かな時間が流れている。