条件付け | LOVE & PEACE

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スピリチュアルな毎日

今朝も寒い。

 

朝からエアコン入れて

暖かいコーヒーを飲んでもやっぱり寒い。

 

そろそろ 冬到来なんだろうなぁ。。。

 

 

 

さて。

 

先日 友人と話しをしていて

ここ数年来想ってきたことを

改めて意識したんだケド。

 

それは「条件付け」ってことで。

 

人間って

何にでも条件を付けたがるんだよなぁ~と。

 

 

 

 

 

彼女の話によれば

最近自分の周辺で起こることで

 

守護霊さんとか ご先祖さんとか

そういう目に見えない存在から助け

られていると感じるそうで。

 

それは 一つひとつが些細なこと

なんだけれども 難を逃れる結果と

なっているとかで。

 

ちょうど 「感謝」について話をしていた

ものだから そのついでに出てきたという

ことなんだケド。

 

要は

 

「守られている」から「感謝」する

構図らしい。

 

 

 

 

 

phaballaとしては 少し違った意見

を持っていて そのことは かれこれ10年

くらい話をしているのだけれど

 

やはり 人の思考というものは

自分が納得しないと 中々入るものでは

ないんだという話でもあって

 

例えば 今回の「守られている」と「感謝」

という話も

 

数年に渡って phaballa側から話して

きたことで

 

彼女のネガティブを軽減するという

方法の一つとして語ってきたというもの。

 

 

誰しも守護霊さんや指導例さんなんぞが

ついている。

 

だから 「守られている」し

 

日常の中で 私たちは「感謝」を忘れ

がちなんだケド 

 

全てのものは根源主の身体とか 

森羅万象的な その不思議に

感謝するという

 

ある意味 どこにでもあるような話

でもあるんだけども。

 

 

 

 

ま。

 

条件付けの感謝が間違っている

わけでもないし 悪いわけでもなく

 

もちろん それでイイんだろうケド。

 

それは

 

何かをしてくれたら「ありがとう」という

 

例えば お店に入り 何かの買い物をして

レジで「ありがとう」と言い合うような。

 

子供がお手伝いしてくれた時に

「ありがとう」というような。

 

そういうものと同じかもしれず。

 

 

何となく phaballaの言いたいことが

伝わっていない感があるという。

 

 

 

こういうことは

十数年スピ活動を始めてから

今まで 何度も何度も経験のある話

でもあるし

 

だからこそ 本人にしか本人の

選択はできないって話でもあって

 

別に どうこう言う話でもないんだけど。

 

(だったら書くなよ~ってか(*_*;)

 

 

いや。

 

そこで思ったんだよねぇ。

 

条件付けっていうものを。

 

 

 

 

 

条件付けっていうと

何か 細かく決まりを作るとか

取引の条件とか

 

そういうイメージがあるものだけど。

 

実は 日常で無意識に使っている

ものでもあるのかもしれない。

 

 

要は「理由付け」ってことなんだけど。

 

人間は 自分の色眼鏡で「理由」を

探すよね。

 

人に嫌われた→何で?→○○だからかな?

とか。

 

大変なことが起こった→何で?→○○の責任だ

とか。

 

これは どちらかというとネガティブな

理由付けの例で

 

逆に

 

凄く良いことがあった場合にも

努力の結果とか さっきの守られているとか

 

理由をつけたがる。

 

このポジ側というのか その延長に

現生ご利益的なものが含まれていて

 

神社巡りとか トイレ掃除とか

そういう話にも繋がるみたいな。

 

 

 

もちろん その通りなことってあるんだろうし

ケチつけるつもりはないよ(笑)

 

ただ 人間の目線というのは

エゴちゃんが支配しているものでもあって

 

そこには感情というものが入ってくるし

 

どうしても自分目線なものがあるよねって

いう話。

 

 

 

 

 

でも。

 

よく考えてみると

 

自分にとっては「良い」ことでも

他の人にとってそうではないことって

結構多いよね。

 

例えば 株で儲けた~とか

自分が得をする=誰かの損みたいに。

 

 

仕事で成功~が叶うご利益のある

神社とか

 

そんな「取引」のような条件付けって

その人だけが「得」をすることを助けてくれる

神さまって ある意味凄くね?みたいな。

 

 

 

 

ま そういう感じで。

 

外側の何かしらで理由をつけるし

それが 当たり前になっているという話で。

 

無意識に その本質ではなく

外側の条件で理解しようとするみたいな。

 

だからというのか

 

「無条件の愛」

なんて言葉があったりする。

 

そもそも「愛」に条件なんてないのにね。

 

条件を付けないことが素晴らしい

みたいな響きよね。

 

 

 

そうやって 条件をつけて

判断する。ジャッジする。

 

それが あまりにも日常になっている。

 

 

 

 

 

 

この世界に来る目的って何だろう。

この世界に生まれた意味って何だろう。

 

昔 占いの学校に行っていた頃

その先生が 冒頭の講義で生徒に質問

したことがあった。

 

「YOUは何しに地球へ?」

 

じゃないケド。

 

 

 

応えは

「もちろん 楽しむため」

だよね。

 

もっというと 楽しいっていうのも

○○だから楽しいじゃなく 体験そのものを

楽しむため。

 

苦しいことや悲しいこと含めて

「楽しむ」って話。

 

 

そんな目的の中で もちろん

現生ご利益も楽しめばいいケド。

 

何かの事象を達成することが

目的になってしまって

 

良いこと悪いことの理解に矛盾が

生れている気がするというのか。

 

これぞエゴちゃん的な

良い悪いの条件付けの世界みたいな。

 

 

 

 

phaballaの想う「神さま」っていうのは

ある意味で 根源的な宇宙法則でも

あるというのか。

 

やったことは返ってくる のも

この法則だし

 

そういう意味で ネガはネガ

ポジはポジを引き寄せるものだし

 

それを楽しめばイイ。

 

 

そういうのとは 別に

 

このネガもポジもゴチャゴチャな

世界の外側というのか

 

「愛」の世界が衣を包んでもいて

 

そこには「条件付け」は存在せず

理解と受容 一体感とワンネスの

世界がある。

 

「取引」じゃなくて 「選択」

 

自分がやりたいからやるし

誰かの体験の邪魔もしない世界。

 

 

 

その視点で考えてみると

何に感謝するのか?とか

条件を付けるのはなぜ?とか

 

どんどん見えてくるものが

ある気がするよ。

 

 

 

 

phaballaは よく

「なぜ?を追求することは大切

なんだという話をしてきたんだけど。

 

これは 条件付けの根っこに

エゴがいることを認識するためでも

あったんだケド。

 

今になって思えば

エゴちゃんの思考が優位な人にとって

 

これぞ「条件付け」だったんだなと。

 

少し言い方が悪かったと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ま そういうことで。

 

私たちの世界は「条件付け」の

世界でもある。

 

でも 

 

もしかしたら少し

変化してきているのかもしれない。

 

というか どんどんそっち方向へ

進んできている気もするというか。

 

 

phaballaの若かった頃。

 

phaballaのような変わり種は

「あの人は宇宙人だから」と割と白い目で

見られて区別されていた気がするケド。

 

今や市民権を得られるようにも

なってきていて

 

まだまだ という感じはあるものの

何でもアリな世の中になってきている

気がするし。

 

 

 

そういう感じだから

 

条件付けも ジャッジではなく

 

認め合うための 理由探しになる

のかもしれない。

 

 

phaballaが占いを習得したのも

「理解」するためだった。

 

その人や 状況の理解。

 

そうすることで より受容しやすくなる。

 

現生ご利益的な「占い」ではなく

理解するための「占い」

 

 

 

同じように 色々な体験そのものも

理解するためなのかもしれないよね。

 

子供嫌いな人に子供ができること

によって 子供との接点や理解や

愛の勉強で視野が広がるとか。

 

様々な体験から「理解」し「受容」が

進んでいく。

 

 

 

そして。

 

自己中心的な「理由付け」「条件付け」

から 大きい視点での「理由探し」

 

何かあったから 感謝するのではなく

今の「普通」に感謝するとか。

 

全体の一部だからこそ それぞれの

存在の重要性を理解し 認め合うことが

実は「感謝」だとか。

 

この世の良い悪いを超えた視点

ジャッジからの解放。

 

 

そう。

 

条件があるからジャッジするんだよね。

 

○○したから 良い悪い。

 

助けてもらったから「感謝する」も

ポジ側のジャッジでしかない。

 

でも 

最初はそれでイイのかもしれないネ。

 

 

 

 

その気持ちの延長には

「心地よさ」があるんだから。

 

その「心地よさ」が「愛の波動」なのかも

しれない。

 

軽い波動。

 

 

 

phaballaは そういう「心地よさ」に

「愛おしさ」が入るんだけど。

 

地球さんにも 宇宙さんにも

近所の子供にも 一生懸命歩いてる

お年寄りにも

 

その「愛おしさ」を感じる。

 

 

それは 本当の自分の世界

から意識することで内側から

溢れ出すもの。

 

条件にとらわれない世界。

 

 

 

 

 

あれれ。

 

いつものごとく 脱線しちゃった。

 

 

 

という話で。

 

条件付け。

 

この世界の中で

人は無意識に この条件付けしている

のはなぜか。

 

 

何となく 頭に浮かぶのは

「不安」からかな?ってこと。

 

本質ではないものに目を覆われて

いるというのか。

 

自分が本質ではないから

どこかに「不安」を覚えているからなのか。

 

だからというか。

 

やはりエゴちゃんの存在が大きい

という話なんじゃないかと思う。

 

 

前の記事でも書いたような

「精神的自立」というのも

 

この外側の条件に依存すること

から 自分の軸で物事を見るというか

シフトする的なものだよね。

 

やっぱり 空っぽ偽物のエゴ

にとっての保身活動。

 

そういう気がする。

 

 

不安を感じる第三チャクラから

それを理解するために第二チャクラが

働いて判断ジャッジ。

 

やはり この話になるみたいな(笑)

 

 

 

 

ちょっと話が飛ぶけれど。。。

 

そういえばというか。

 

姪っ子が高校生の頃

彼氏はできたの?というphaballaの

質問に

 

「え?できないよ。

 だって 好きになるってどういうことか

 わからないもん」

 

そういう会話をしたことがあった。

 

当時のphaballaは かなりビックリした

ことを覚えている。

 

 

それから。

 

息子との会話の中で

 

ゲームのキャラの人気とか

使われる頻度とか

 

そういうものは

ネットで「人気」があるかどうかで

決まるんだという話があって。

 

 

phaballaが

何となく合点がいったのは

 

外側の条件付けがあまりにも

痒いところに手が届き過ぎるためか

 

または 

 

思考優位になる=第二チャクラ的な

世界観がより強いためなのか。

 

そういうことだった。

 

 

 

自分がどう思うかではなく

外側の条件によって物事が決まる。

 

その条件の中にいないとハブられるし

「不安」になる。

 

正しさを見失う。

 

何者でもない「エゴちゃん」の

究極の保身反応。

 

やはり 同じようなベースなんだよね。

 

 

 

ということから

 

条件がないと すでに生きていけない

世の中になっているのかもしれないし

 

自分の感覚からくるものよりも

外側の条件によって選択する時代。

 

時代というよりも 元々人間って

そういう存在なのかもしれないケド。

 

今の時代は より低次のものが

優位になっている時代なのかもしれず。

 

第三チャクラの「感情」の世界よりも

低位である「判断」しかできなくなっている

のかもしれない。

 

 

 

この条件付けは

物事の本質的な性質を語るものより

 

見せかけの埋め込まれた価値

によるものでしかなく

 

損得や流行やコロコロと変化する

世の中の動きの中で変化するもの。

 

お手軽「不安解消材」なのかも

しれないし。

 

逆に 

 

あまりにも固定された

ある意味伝統のような価値観で

 

正しさへの執着があるのかもしれない。

 

 

ということで

 

やはり エゴちゃんの

「私」の生死を掛けた戦いに由来

するのかもしれないという話。

 

 

 

phaballaは たまに

何でこんなことしてるんだろう?とか

何必死になってるんだろう?とか

 

我に返る瞬間を経験したことがあるケド。

 

あれって 本質を垣間見る瞬間

なのかもしれないね。

 

 

 

 

 

ま。

 

どちらにせよ 条件つけるなら

ポジ系。

 

そこから 「心地よさ」を手に入れて

波動を軽くすることで

 

本来の「感覚」を取り戻し

ジャッジのためではない「理由探し」

に昇華する。

 

 

そうすることで

 

実は 何も求めていない

何にも捕らわれていない

 

まっさらな「自分」の発見になるの

かもしれない。

 

 

 

って。

 

ここまで ある意味必死こいて

そういう風にみてみたけれど。

 

やっぱり「条件付け」から解放され

ないと 本質は見ることができないカモ。

 

 

どっちやねん!!

 

 

この世界は「ドラマ」

ドラマを楽しむんだから それでイイ

んだろうねぇ。。。

 

 

 

 

 

あ。

 

またまた 話が飛び過ぎて

どうしようもないので

 

今日は この辺にしとこうと思います

 

では(^^)/