7月11日にロイヤルオペラハウス(以下ROH)に「ポント王ミトリダーテ」を観に行きました。2週間もたってやっと記事を書くことができ、荷を降ろしてほっとしたような、淋しいような気持ち。書き終わるまでは、なんて書こうかな~、とつい考えてしまうわけで、ある意味これはまだ鑑賞自体を反芻して楽しんでいるってことですから。

mitridate brude ミトリダーテ王


これはモーツァルトが14歳の時に、ミラノのスカラ座の前身である劇場の注文で書いたオペラで、彼はこの前にもすでにいくつかオペラを書いています。14歳と言えども、天才を凡人の尺度で計ってはいけません、質量ともになかなかのスケールです。


これはオペラセリアという当時流行っていたスタイルで、題材を神話や歴史的出来事などから取り、出てくるのは神様や王侯貴族。このオペラのミトリダーテは、ミトリダーテ6世(132-63BC)で、彼はローマ帝国に抵抗するため近隣のギリシャ諸国を征服したアナトリア地方ポント国王。黒海の南岸、今はトルコの一部です。


この手のオペラはストーリーを語って登場人物を描くのが目的ではなく、それは単に歌唱技術を披露するための題材に過ぎないので、あらすじは超簡単にまとめると;-


ミトリダーテは二人の息子の動向を試すため、自分が戦死したという偽りの知らせをわざと伝える。弟シッファーレは父親に忠実でギリシャ側を守ろうとするが、長男ファルナーチェは宿敵ローマ軍に近づいて裏切ろうとして政治的に対立しており、おまけに二人ともなんと父ミトリダーテ老王(69歳!)の若い婚約者アスパシアを愛している。兄ファルナーチェは早速アスパシアに結婚を申し込むが、弟シッファーレの方を愛しているアスパシアは退ける。しかし、シッファーレは父への忠誠心からアスパシアの求愛を拒む。

戦場から帰還した王は婚約者アスパシアを試そうと「わしゃもう年じゃけん、息子のどちらかと結婚してくれんかのう」と言うと、最初は「殿、何を仰います、私は貴方の許婚ですよ」なんて言ってたのに結局は正直に弟シッファーレを愛していると告白。怒ったミトリダーテ王は「どいつもこいつも裏切りよって。皆死刑じゃあ」と。他にもう一人、兄ファルナーチェの婚約者でペルシャの王女イスメーネという女性がいて、彼女はファルナーチェに「もうあんたのことは愛してない」と冷たくされても心変わりせず、王の逆鱗に触れた3人の命乞いをする優しい女性。

そんなゴタゴタの最中にローマ軍との戦いに行かねばならず、負傷して帰って来たミトリダーテ王。父と共に戦った弟シッファーレと、心を入れ替えて父の側に立ちローマ軍を苦境に追い遣った兄ファルナーチェを許し、兄ファルナーチェはペルシャ王女イスメーネとよりを戻し、若い二組のカップルを祝福してミトリダーテ王は息を引取る。


このオペラの上演回数は極めて少なくて、今回のROHも私が行った日で通算僅か11回目。初演がなんと1991年で、今回がはじめての再演の筈。でも機会が少ないのは、オペラ自体の出来が悪いからというよりは、優れた歌手を5人揃えなくてはならないためだと私は思います。よくオペラ歌手が「モーツアァルトは簡単そうに聞こえるけどほんとは歌うのがとても難しいんです」と言うけど、本当にそうだと納得するような技術的にすごいテクニックを求められるアリアが目白押し。一曲づつが長くて難しくて、それを5人とも何度も何度も軽やかに、ときにはドラマチックに歌わなくちゃならないので、上手な歌手が揃った場合は歌唱コンテストとしてこんなに楽しめるオペラは滅多にないですよ。

先日見たワーグナーの音楽が途切れなく続く様式とは正反対で、これは番号オペラと呼ばれて、順番に歌手が延々と歌い、拍手を浴びて、を繰り返す古いスタイルです。

カストラートとカウンターテノール

歌手と言えば、珍しいことにこのオペラには低音の歌手が全く登場しません

アスパシアとイスメーネの女性二人はソプラノ、ミトリダーテ老王はテノールなのはずっと同じですが、二人の息子はモーツアァルト時代にはカストラートと呼ばれる声変わりしないようにタマ抜きされた男性歌手でした。カストラートが存在しない現代、兄ファルナーチェは女性アルト或いはメゾソプラノでもいいのですが、普通はカウンターテノールという裏声男が歌います。日本では「もものけ姫」でメラヨシカズというカウンターテノールが有名になったでしょう?

18世紀の全盛期にはカストラートはすごい人気で大スターだったので、荒稼ぎさせようと息子に手術を受けさせた親も多かったそうです。それに彼らはタマ抜きされても、生殖機能がないだけで、男性機能はあったので、浮気相手として上流階級の女性にモテモテだったそうです。女性と同じ高さの声に男性の力強さが加わり、きっと素晴らしい歌声だったにちがいありません。録音もほんの少し、しかも稚拙な録音技術でしか残っていないので、実際にどういう音だったのかわからないのですが。


そこへいくと現在のカウンターテノールはバリトンが裏声にするわけですから、似て非なるもの。私はカウンターテノールが実は大好なのですが、嫌~っ、気持ち悪い~!と感じる人も多いでしょう。その気持ち悪くてゾクゾクするところが世紀末魅力というか魔力なんですけどね。

そう感じる人は多いからこそ最近は歌手の数も増えてきて、この手のバロックオペラの魅力があらためて見直させるきっかけにもなっているわけです。


scholl 1  

人気カウンターテノール、アンドレアス・ショル。

正常な男性です。


私はカウンターテノールのリサイタルにはよく行ってますが、ここ数年イギリスで一番人気があるのがドイツ人のアンドレアス・ショル。声楽界のクラーク・ケントというあだ名のショルは、長身でがっちりして四角い眼鏡を掛けていて、とても女々しい声を出す人には見えず、見かけはまるでラグビー選手。私は何度もリサイタルに行って、サイン会で握手してもらったこともありま~す。おまけにハンサムで素敵なんです。

カウンターテノールの伝統があるイギリスで頑張るロビン・ブレーズ等、私がファンである人は何人かいますが、一番うっとりするのはカナダ人のダニエル・テイラー。明らかに男が裏声出してるねえとわかる人と、まるで女性かと思うような人と2種類いて、前者が多いのすが、ダニエル・テイラーは後者。彼は小柄でハンサムでもないけど、美しい声です。


mitridate girls  

弟シッファーレとおじいさんの婚約者アスパシア

今回の歌手

今回の兄ファルナーチェ役はアメリカ人のデイビッド・ダニエルズ。いままでに何度かリサイタルやコンサート形式オペラで聴いたことありますが、フルオペラで聴くのはじめて。NYメトにも時々出てるし、カウンターテノールの中では今オペラハウスでは一番の売れっ子。アンドレアス・ショルは滅多にオペラには出てくれないので。ダニエルズは俳優のアレックス・ボールドウィンを小さくしたような容貌で、私が聴いた中では、私の好きな声ではないものの、安定という意味では最も優れている一人ではないかと。このオペラ、他の人のアリアは知られてないものばかりですが、悪役とは言えカウンターテノールの華やかなアリアが2、3入っていて、一番受ける役どころ。


そんなカウンターテノールの毒気にあてられてか、ミトリダーテ王のテノールはぱっとしません。テノールは、バリトンやバスの低音と対比して高い声でスコーンと響くのが魅力なわけで、ここではその美味しいところは不気味な女男(おんなおとこ)に奪われて、中途半端な高さで印象が薄いのです。今回のテノール、ルース・フォードは1991年の初演のときも歌ったアメリカ人の一流テノールで、テクニックも声も充分上手だったですけどね。


もう一人の息子シッファーレは、切符を買ったときはアンドレア・ロストが出るというので楽しみにしていたのですが、早い段階でキャンセルになってしまいました。彼女は日本にはよく行くけどロンドンには来ない有名歌手の一人です。代りはイギリス人のサリー・マシューズ。ROHの若手育成プログラム参加者なので、準主役級でよく出るところ、今回は大抜擢されてROHでははじめての大きな役。可憐な容姿でこの難しい役を頑張ってこなし、もうすぐ主役の仲間入りはできるでしょうが、経験不足のせいかところどころ不安定で、良いアリアとそうでないアリアの差がちょっとあったように聞こえました。


ペルシャ王女イスメーネはイギリスの中堅スーザン・グリトン。安定した実力はあっていつも安心して聴いていられるのですが、私には声自体の魅力が乏しいんですねえ。

アスパシア役のソプラノは聞いたこともないアレクサンドラ・クルザック。ロシア人か東欧系でしょうが、女声3人の中では一番私の好みで。この役に合った華やかさでした。


舞台と衣装

この舞台は映像になっていて、それがとても洒落てて綺麗なことは知っていたので、今回は舞台が全体にちゃんと見えるところにしようと、いつもとはちがうアンフィ・シアターにしたのですが、グレアム・ヴィックの舞台セットそのものは全面真っ赤な壁とか、すごくシンプル。

でもそれは衣装を引き立たせるためで、日本の戦国時代のよろいと中世ヨーロッパの横にやたらに広い宮廷衣装をを組み合わせたり、斬新で楽しくて思い切りポップにカラフル。それを歌手は太極拳風の振り付けで歌い、この統一されて洗練された舞台は視覚面でユニーク。ROHでは私の一番好きな舞台の一つです。


尚、この日は7日の同時テロの影響で、あちこちで道路封鎖や地下鉄一時停止が続出したため、帰りの足が心配になり、最後の幕は見ないで帰宅しました。私は着物姿でもあり、足止め食らったら大変だったし。でも全部見ると正味3時間、2度の休憩を入れると4時間近いので、最後の45分を諦めても充分堪能したという気持ちです。


それで、見られなかった部分を後で家でビデオで見たのですが、カウンターテノールのヨッヘン・コワルスキーの大袈裟な悪役振りがすごくよかったのでした。