天皇制について | 開成ボーイのmadなdays

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人生は為したいことを為す手段であって、目的ではない。
生きる理由は、それしかその手段がないからである。

天皇制について今日は考えたいと思います。(天皇自体が特殊な敬意のニュアンスを含む語なので、以下PC語(politically correctすなわち政治的公平性(多少意訳ですが)の略です)としては皇帝の号を用いたいと思います。というのは、天皇制自体が本来は中国皇帝制由来のもので、かつ西洋のカエサルに由来するエンペラー系統や米大陸の王をも一括して「皇帝」と日本では呼ぶことを考慮すると、天皇をPC的発想で呼ぶにはやはり皇帝として含めてしまうしかないように思われるからです。)
俺なりの結論から書きましょう。皇帝制は、象徴という形であっても、廃止されるべきだと思います。日本が皇帝を存続させている最後で唯一の国だからなどという視点でかく言っているのではありません。今からその理由を書いていきます。
皇帝は、戦後の人間宣言で、確かに神格性は否定されたのは事実です。しかし、未だに伝説的初代神武帝以降全ての皇帝があたかも事実であるかのように(日本版wikipediaでさえ皇帝紀元を前600年代などというとんでもない数字を平然と書いています)書かれている点において、帝室の神話的性格が払拭されていないのは事実と認めざるを得ないでしょう。
ではこの神話とは一体何であったか。記紀神話です。その神話の原典、すなわち古事記は国内に対し、日本書紀は国外に対し、日本皇帝制の正当化を図って書かれた書物です。このような神話は所詮は(拡大解釈しても)畿内貴族の神話に過ぎない。ではそんな神話的な性格を内包する皇帝を日本の象徴とすることは何如なることでしょうか。
まず第一に、畿内貴族の神話を奉じることによって、国内における他者(近畿の人でも庶民の人、東国人、アイヌ、琉球など)を無意識に排除することが正当化されているという解釈が成り立ちます。すなわち対内的排他性を有することになるわけです。
第二に、帝室を対外的に正当化するこの神話の側面が、ーナショナリズムとあまりにも強く結びつきすぎたことが戦前の軍部独裁を許し、神国幻想を発生させたようにー、対外的排他性ーあるいは日本人の島国的排他性ーの牙城として機能しているために、日本のグローバル化(あるいは将来的には宇宙化)をいつまでも妨げる、という問題点があります。日本は言語の独自性が高く、島国辺境の地ですから、世界がグローバル化する時代においてこの波に遅れれば、最悪再び鎖国するに等しい状況に追い込まれるでしょう。ですから日本が生き残るにはグローバル化(あるいは宇宙化)に対応できるようにすべきであり、この排他性はその障壁として廃すべきだと断言できるわけです。
第三に、神話的性格を持った家系を象徴として奉じることは、日本国が未だに記紀神話の続編でしかない、ということを意味します。というのは帝室を象徴皇帝制は相変わらず、ある意味では正当化しているわけですから。そしてそれはすなわち、日本が未だに神話の時代から抜けきれていないことをも意味するわけです(神話の時代ではいつまでも人は精神的に自立できないから、殆どの地域では脱神話はとっくに完了しているのに)。
まとめると、象徴皇帝制は、なるほど、日本のある側面を象徴してはいます。しかしそれは日本の対外・対内的排他性と、未だに日本が神話的時代にある、ということ、すなわち日本の廃し改善すべき側面を象徴しているのでしかない。シンボル廃止が、国民の大部分を占めると思われる保守穏健派を変えるのに成功する保証はないにしろ、そのようなシンボルがいつまでも国のシンボルにされているのでは、改善の余地すらないのも事実です。だからこそ、まずは悪しきシンボルを廃することから始めるべきだと言い、すなわち日本の皇帝制の廃止(フランス革命のようなギロチン処刑までは要求してはいません、念のため)、という結論に至ったわけです。

皆さんはどう思いますか?
ではまた