小さな頃。転ぶたびに、膝小僧に擦過傷を負った。

擦過傷は、ゆっくりと少しずつ出る血を固め、やがてそれはカサブタになった。

カサブタはすぐに剥がれるけど、新しくできた柔らかい肌の上に、ボクらはまたも転んでは擦過傷を創った。

そうして、膝小僧は少しずつ強くなった。

人が生きていく上で、傷を負い、それを回復させることによって強くなるという文脈はやっぱり必要で、それなしで成長したならば温室のあだ花になってしまう。ボクは、そう思う。

大人になって。日常が平凡化した時、ボクは膝小僧に傷を負う体験をひどく懐かしく感じた。

朝起きて、窓を開ける。冬には冷えた外の空気を吸い込み、肺が悲鳴をあげた。仕事に向かう準備を始め、ボクは車に乗り込んだ。

夜になって月が出た。その光がボンヤリと町を包み込むまで、ボクは働き続けた。その繰り返し。毎日ボクはカセットテープレコーダーの巻き戻しボタンを押し続けた。

日常が傷つかない。いつしかその行為の連続は、大きな閉塞感に繋がった。

その頃から、ボクは文章を書き始めた。

20代後半から。

最初は地方誌を作り始めた。ボクが書いて、ボクが編集して、ボクが発行する。



若林で見た空


その零細的な活動はやがて仲間を集め、かなり大きな輪になったけど、いつしかそれは行き詰った。皆、日常に押しつぶされて生きている世代だったから、一番楽しいはずの表現活動に疲弊した。ボクはその時思った。

日常は、なかなか傷つかないんだと・・・。

やがて、ボクはボク個人としての本来あるべき文章を書くという活動に没頭した。6月と12月に応募があった、文学界にも作品を出し続けた。僅か100ページという短篇小説。テーマは創傷(そうしょう)。心に傷をつけるということ。

ほら、ちっちゃな頃。膝小僧に擦過傷を作り、それがやがてカサブタになった時のように。ボクはそのカサブタが日常に生まれた閉塞感を壊す唯一の方法だと信じていた。

グレート・ギャツビーを書いた、スコット・フィッツジェラルドは、アメリカの行きづまった状態を小説に書き記した。どうしたらここから抜け出すことが出来るのか。

そんな時、リンドバーグが空を飛んだ。

曇り空を切り裂き、その金属の塊はリンドバーグという冒険家の手によって、パリへと運ばれた。アメリカはその瞬間に、何かを発見した。

フィッツジェラルドは言った。「そうか。空を飛べば抜け出せたのか」。

バブルが崩壊し、20年。失われたその年数は、アメリカのロスト・ジェネレーションよりも長い。誰がこの曇り空を断ち切るのだろう。

そして個人として。目の前に浮かぶ、遠い未来への視界を遮蔽するブヨブヨとした空気を、吹き飛ばすことが出来る力をつけるために。

そう。ボクらはもう一度、膝小僧に傷をつけて成長する経験が必要なのかもしれない・・・。