親の手で子どもを潰したくない
母 「ねえ、お母さん、行きたいところがあるだけどさぁ」
子 「いいよ、どうせ楽しいところだらぁ」
ど・・・どうせ って、どういうことだ!?
ということで、「どうせ」楽しいところへ行ってきました。
浜名湖ガーデンパークでやっていた、手作り市。
そしてガーデンパークで遊んできましたよ。
画伯は「まじで嫌だ」と泣きながら休日出勤していったので、
親子3人での公園です。
私の目的は、「カホン」という楽器を見つけること。
そして子どもらの目的は、とにかく遊ぶこと。
お互いの目的を果たすように、お互いに気を配りながらの1日でしたわ。
杏菜 「お昼御飯までは、カホン探しね。で、昼から公園ね。完璧だな。」
母 「ハイ・・・」
もう、我が家の子どもらって・・・
親がこんなんなので、そりゃ子どももそうなるか。
結局、心躍るようなカホンは見つからず、かわりに「枝オカリナ」なるものを購入。
「またお母さんってへんな楽器買うだね」という褒めの言葉をいただき、
そしてみんなでやきそばを買い、食べたあとは公園よ。
公園で遊んでいるのをボケーっと眺めていると、
遊び始めて2分くらいで、漣人が知らない子をナンパしていたわ。
そしてナンパは無事に成功したらしく、ニヤニヤしながら知らない子と遊び出す。
そしてその2分後にはさらに知らない子を誘い、みんなで自己紹介しながらおにごっこ。
開始10分後には、知らない子5人がおにごっこをしていたのだ。
なんなんだ、漣人は。
2年前までの、あの人見知りの人間はどこへ行ったんだ。信じられん。
あの杏菜までもが、「最近の漣人ってヤバいね」と言う。
たっぷり遊んで、3人でアイスを食べることにした。
食べながら、「今日も知らない子と遊んでたね、すげえなアンタ」と言った。
杏菜 「だってさぁ、漣人ってお母さんから産まれたじゃん」
漣人 「だって漣人、お母さん好きだもん」
どういうことだ、と一瞬思ったが、なんとなく理解した。
母はどこへいっても、誰とでもすぐにしゃべりだす。
特に最近の母は、フェイスペイントでいろんな子どもにどんどんしゃべる。
最初は恥ずかしがっている子も、すぐにしゃべりだす。
だからオレもそれやってる。
そういうことなのか。
漣人 「だってさぁ、しゃべれば仲良くなれるだに」
そんな単純なことなのかよ。まじか。
そんな世の中なら、本当に素敵だ。
子どもは親の知らないところで成長している。
なにもそれを、親の手で止めることはない。
私は親だけど、子どもらのことでいっぱいいっぱいになったことがない。
それはいわゆる「適当」だからか?手を抜いているからか?
子どもに意識がいってないからか?
そういうことではないよ。
ただ私は、子どもらには子どもらで考え、生きていけばよいと思っている。
どんな困難も苦悩も、経験してもよい。
(だからといって、もう小児がんだのなんだのは、まじで勘弁願いたい)
子どものことを考えないで、自分のことばかりでいいですね、と言いたい人もいるだろうが、
うちの場合は子どもらが
「お母さんさぁ、お母さんが楽しいこと、していいでね」というので、している。
たとえば子どもらがなにか体験ワークショップをする時は、私はなるべくそばにいない。
親の意見は、そこには必要がない。
なにかと口出ししたくなる、そこに金がかかっているから、
それが親というものだ。
だから私はあえて、その場から離れ、
外野から「ウッ、すげえセンスだなそれ・・・」と思いながら見守っている。
私は本当に、適当なのかもしれない。
不真面目だ。
だって、子育てで「手いっぱい」だと思ったことが、1度しかない。
その1度というのは、杏菜を産んで1年間くらいの期間だ。
はじめての子育てに、過剰反応していた、あの1年。
そして1年たったあと、私は気付く。
「私って、子育て という言葉にヤラれていたんだ。ハハッ」と。
さっきみんなで風呂に入り、今日のことを話合った。
漣人 「楽しかったで、今日はいっぱい寝れるわ」
幸せね。