私は、拙ブログを書くにあたって、ゴジラ音楽で有名な
伊福部 昭さん(故人 いふくべ あきら、1914年 - 2006年)
・・・について調べるうち、
すっかり、伊福部さんの”音楽に対する姿勢”に感銘を受け
”伊福部さんは、当時の中田ヤスタカさんだっ”
・・・とまで思うようになってきました。
↓「Perfumeと伊福部 昭さん」参照
http://ameblo.jp/patthral401/entry-11387091967.html
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この記事は、読者を選びます(ええっ)
*中田ヤスタカさんの”音楽”を聴き取ろうと努力したい方
*音楽創作活動や楽器演奏の習熟に興味のある方
*Perfumeの自称キモいカルトでコアなファンの方(オマエのことだろっ)
以下、”音楽”についての話題ですから、
かな~り、長文かつ解りにくいです。
Perfumeの総合的魅力に対して、音楽への興味の割合が薄い方は、
伊福部さんの著した文章の抜粋は読み飛ばしてください(えええっ)
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では、私が何故、現代の中田ヤスタカさんと、故人である
ゴジラ音楽(本当はもっと偉大な作曲家)の伊福部さんに共通点を感じるのか、
要点だけ、当時の伊福部さんの著書から抜粋してみます。
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(音楽入門 Revision 1985 )
追記=1951(昭和26)年に要書房から要選書の1冊として刊行され、
85年に改訂版が出されたものです。
①音楽はどのようにして生まれたか
音楽とは、直感的な、ある意味で原始的感覚による芸術です。
音楽を鑑賞するときは、絶対的な権威の解説や定評というものより、まず裸になって、自分の印象、感動を尺度の第一とすべきです
勿論、その上で自分の審美眼を磨く為に、高度の意見を勘考することは重要です。しかし、自分の尺度が無い人は決して高い位置には辿り着けません
②音楽と連想
音響が呼び起こす心情感覚には2種類あります。「直接的な感覚」と「連想」です
音楽を鑑賞する際は、この連想を捨てなければいけません。
連想は連想を呼び、終には元の音楽からかけ離れた所に行くのです。
勝手な幻想を真の鑑賞であると考えるほど、馬鹿げたことはありません。
先人がその曲を聴いた感想文を読んで、その人と同じ情景を思い浮かべても、その音楽の実体とは関係ありません
画や劇の伴奏は、標題音楽、効用音楽と言い、小説の挿絵と同じで、純粋音楽とは目的や用途の違う別物です。
曲の題名や歌の歌詞から来る連想は、言葉に対する連想であって、その音楽自体の直接的な感覚ではありません
日本では、古い曲の殆どが標題・効用に類するもので、長くその伝統が有るため、曲を聴いて連想、幻想することこそが真の音楽鑑賞であるかのような、誤った鑑賞態度が流布されていますが、連想・幻想は、それ自体が主になってしまい、その音楽を従にしてしまいがちです。
まず、その音楽そのものの持つ直接的な印象効果を汲み取るべきなのです
③音楽は音楽以外の何ものも表現しない
音楽を解する人と知らない人の間では、駄作『ツァラトゥストラはかく語れり』と傑作『ジムノペディ』の評価は逆転するようです。
個人の美感の差もあるでしょうが、題名や演奏形態に影響されているのです。
駄作に付けられた哲学的なタイトルは、下手な画家が作品に『出征前の日』と題をつけて絵の感動を高めようとしているのと同じです。
題名や作曲家の思想ではなく、純粋に音楽を聴きましょう。
見事に構成された音楽作品こそが哲学になるのです。
④音楽における条件反射
“パブロフの犬”の様に、前述したような不純な思わせぶりな音楽を本格的なもの・壮大重厚なものと教え込まれると、響きが似ているだけで壮重な曲と感じてしまいます。
私が子供の頃も、無闇な音楽溺愛者、売る為の誇張された宣伝解説、誤った教師に盲従するしか有りませんでしたので、つまらない作品でも世評が高いから感動する筈だと自分に言い聞かせるという、実に間違った努力をしていました。
誤った教育を受けるよりは、音楽から遠ざかる方が賢明です。
真の音の美しさを知るには、一旦は既成の観念を捨てなければなりません。
⑤純粋音楽と効用音楽
以上述べたことは純粋音楽についてです。
絵画には、店の看板、ポスター、挿絵等、その効果に主眼が置かれるものが在ります。
音楽にもこの種の“効用音楽”が在り、その価値が純粋音楽より低いというのでもありません。
効用音楽の完全さは、その目的への適応の度合いによります。
ポスターや挿絵が見事でも、効果がなければ成功ではありません。音楽に於いても、例えば士気を鼓舞しない軍楽は失敗作です。そういう音なら何でもいいというのでは無く、効用音楽には、純粋音楽に効果という別の尺度が参加するのです。
ギリシア以来、舞台劇では人物の死と同時に鐘が鳴り悲しい旋律が流れるのが普通ですが、それを現代映画で使用すればコミカルに感じるかも知れません。
効用音楽はその時代的な受け手の差や用途の組み合わせによって異なった印象を与えるのです。そこに、純粋音楽と効用的に使われる音楽の違いが在ります
⑥現代生活と音楽
現代は一部の人間によって選定された曲が、テレビ・ラジオその他によって強制的・暴力的に降りかかってきます。いわば、音楽は私たちの生活を無視しているのです。
無神経なハリウッド映画には、必要も効果も無いところにただ意味の無い音楽が詰め込まれ、殆ど全部が音楽に満ちています。
現代の音楽は単に音響であれば良くなり、どんな粗雑な作品でも立派に音楽として通用し、放送から流される音楽は、強烈な印象を与えようとしながら、逆に何をも与え得ないという事になっているのです。
こういう音の洪水に溺れる音楽は、もはや何らの精神的準備も無い所にいきなり現れる騒音と化し、これを無視して聞き流さざるをえないのです。
このように、強制的に音楽を音楽自体として聞かないように習慣付けられた耳を、再び音楽を理解する耳に戻すことは困難です。
逆に意識して音楽作品を聞く場合には、そこに無理やり何らかの哲学や文学や記憶のイメージを結びつけるという、さきに述べた音楽自体を鑑賞するという態度からかけ離れた方向に向かうのです。
これを救うには、出来るだけ音楽から逃れることです。選ばれた作品を、毎日では無く時々意識して聞く方が、音楽についての理解を深められるでしょう。
⑦あとがき
音楽は他の芸術とは違い、作曲家がどんな作品を書いても、演奏によって変わるのです。
管弦楽に当たっては生活と思想を異にする100人によって再現される事を忘れてはいけません。これはただに、設計図と建築だけに共通なことです。
一つの知識が進歩する段階には、必ず議論があります。
音楽にあたっても、自己の見解の確立の為には必ず“戦さ”を覚悟しなければなりません。
新しい見解が全て正しいというのではありませんが、労せずに大勢の流れる所についたのでは、決して真の途は発見できないのであります。
「不遜な一面がなくては芸術家ではない」 ゲーテ
音楽も芸術であることを忘れないようにしたいものです。
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え~っと、まったく抜粋になりませんでした(しっかりしろよっ)
この長文を、理解をしようとする前提で読む方は少ないと思いますので、
私の印象に残った文章のみを、今度こそ要約してみます。
(音楽に向き合うための初歩的理念)
①自分の審美眼を磨く為に、高度の意見を勘考することは重要
②自分の尺度が無い人は決して高い位置には辿り着けない
③音楽を鑑賞する際は、連想を捨てなければいけない
④誤った教育を受けるよりは、音楽から遠ざかる方が賢明である
⑤真の音の美しさを知るには、一旦は既成の観念を捨てなければならない
⑥効用音楽の完全さは、その目的への適応の度合いによる
⑦現代は一部の人によって選定された曲がテレビによって強制的に降りかかる
⑧音の洪水に溺れる音楽は、何らの精神的準備も無い所にいきなり現れる騒音
⑨音楽は他の芸術と違い、作曲家がどんな作品を書いても、演奏によって変わる
⑩労せずに大勢の流れる所についたのでは、決して真の途は発見できない
私は、この伊福部さんの意見に感銘を受けますし、
現代でも通用する立派なクリエーター魂と感じます。
私が拙駄ブログで主張してきた事となんら齟齬は無く、
特に、
④誤った教育を受けるよりは、音楽から遠ざかる方が賢明である
⑦現代は一部の人によって選定された曲がテレビによって強制的に降りかかる
⑨音楽は他の芸術と違い、作曲家がどんな作品を書いても、演奏によって変わる
・・・などは、まったく同じことを主張してきました(自慢かよっ)
私のような、素性も解らぬ奴の言い分よりも、
こういった日本音楽界の偉人の言葉には説得力があります。
伊福部さんの名誉のために補足しておきますが、
伊福部 昭さんは、そこらの商業的職業作曲家や
国内のみで評価を受けているようなシンガーソングライターとは違い、
世界に作曲能力を認められた偉大な方
・・・・であります。
『音楽は他の芸術と違い、作曲家がどんな作品を書いても、演奏によって変わる』
・・・のです。
拙駄ブログの過去記事も併せてお読みください。
↓
↓「Perfumeは残念っ?」
↓私の言い分・・・どんな良い楽曲でも演奏者により音楽の質は変化する
http://ameblo.jp/patthral401/entry-11386444920.html
↓「Perfumeとリテラシー」
↓私の言い分・・・音楽は視聴環境によって質が変化する
http://ameblo.jp/patthral401/entry-11392663887.html
↓「Perfumeとヘッドフォンアンプ」
↓私の言い分・・・音楽は再生装置によってその本質まで違って聴こえる
http://ameblo.jp/patthral401/entry-11405248601.html
中田ヤスタカさんは、別に意地を張って自分の曲の
”生演奏化の拒否”
・・・をしているとは私には思えません。
現在の演奏形態では自分の音を再現することは不可能だと分っているだけです。
そして、自分が創った音は、
”他の誰にも真似も、再現も、出来ないだろう”
・・・という誇りとプライドを持っているのだと思います。
↓ ↓
『不遜な一面がなくては芸術家ではない ゲーテ』
注 ”不遜”=謙虚でない事
思い上がっていること
そして私は”そこ”をPerfumeの楽曲群から聴き取って、感じて欲しいと
多くのPerfumeファンの方にお願いしているのです。
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Perfumeに会う為には、○万円もの出費を惜しまないのに、
なぜっ!
同じPerfumeの音源を深く感じ取ろうとするための出費をケチるのか、
私には理解ができません(人それぞれだろっ)
あなたは”Perfume”のどこを見て、どういう角度から
”Perfumeのファンだ”
・・・と言っているのでしょうかっ???
自問自答してみてください(人それぞれだろっ)
もちろん、Perfumeが多面的で複合的な総合芸能
であることは良く理解しているつもりです。
(Perfumeの多面的魅力)
①斬新な楽曲
②独創的振付演出
③独創的ダンススキル
④人間性としての魅力
あなたは、この中の②~④ばかりに、ご自身の経済力を割き、
「追いかけてはいないでしょうか?」
私はそのような、
総合力を理解しようとしない偏ったPerfumeファン
・・・は、遅かれ早かれ、いずれ、利己的な理由を付けて、
* Perfumeから離れていく
* または、付かず離れずの姿勢を取る
・・・・と感じています(言い切ったっ)
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・・・・・・・・・・・・「ウザ~~~イッ」・・・・・・とお思いのアナタ・・・・・・・・・
私は適切な”選民意識”を持っています
・・・・・・・・・・・「もっとウザ~~~イッ!」・・・・とお感じのアナタ・・・・・・・
・・・・あなたと、私や伊福部さんとは”人生観”が決定的に違うようです
・・・・・・・・・・・・・・・・「ウザ~~~~イッ!!!」