毎日、楽しくも忙しく、あわただしく過ぎて行っています。

 

やりたいことの何分の一もできておらず、少しいらいらしがちな時もあります・・・。

梅雨のどんよりした日も、心晴れやかに過ごせますように…。

 

 

 

いざという時の信仰 ~勉強・受験編・その1~

 

私が中学まで過ごした岩手県は、まだ義務教育の中学生だったこともあり、とてものんびりしていました。

 

勉強はせず、教科書に折り目もついていなくて「今どこやってるの?」という感じで、毎日、友達と「いかに目立つか」ばかり考えて、面白おかしく過ごしていたように思います。

 

おかげで友達は「勉強しなくても入れる」と言われていた高校に落ちましたが・・・(^_^.)

 

ところが中学3年の時に「富山県の牧師のいない教会へ行く」と告げられ、富山県の高校を受験することになりました。

 

半年で3年分の勉強をするも、模試での合格率は20%でした。(それも後から聞きました。)

 

が、滑り止めなしで受験しました。兄妹3人とも、滑り止めの学校は受けたことがありません。

決して頭が良かったわけではないのに…。牧師家庭だったので、きっとお金がなかったのかもと思います。

 

その学力で神様に守られ、なんとか合格しましたが、入ってからがやはり大変でした。

 

数学は特に苦手で、316人中316番だったこともあります。

 

当時、数学の先生は、赤点取った学生を「頭が良くなりますようにっ!」と言いながら、出席簿のハードカバーの角で一発ずつ叩きました。痛いのなんの・・・(>_<)

 

私は「3バカトリオの一員」と言われ、毎回叩かれる組で、その時にだいぶ脳の組織が損傷したんじゃないかなと思っております(^_^.)

 

岩手県では特に「勉強できる、できない」は重要ではなかったのですが(当時の私の周辺での話ですが)、富山県では明らかに勉強できる人が尊敬されるという図式がありました。

 

ずーずー弁の岩手から、どちらかと言えば関西寄りの言葉に近い富山弁を聞き取ることができず、しばらく先生が何を言っているのかわからずに困りました。富山弁の「ヒアリング」ができなかったのです。

 

高校に入ってすぐに、「ここでは勉強できないと、教会や神様の話をしても誰も聞いてくれないかも。」と思うようになりました。

 

「神を信じて何になるのか?」と言われたくはなかったので、塾は行かずに自分なりに勉強することにしました。

 

日曜日は朝の教会学校から夜の夕拝まで、水曜日の祈祷会、土曜日の集会、フルで参加し、教会の皆さんにもよく祈っていただきました。

 

牧師である父が集会をどんどん増やしていたので、参加する集会も結構たくさんありました。

 

「今頃みんな、勉強しているだろうなあ。」と思いながら、テスト前などは教会に勉強道具を持参したりして、時間があったら勉強するようにもしていたことを懐かしく思い出します。

 

テキトーな高校時代で、私自身の信仰もしっかりしたものとはとても言えませんでしたが、「神を第一にすること」「教会を優先すること」を両親に教えられ、感謝なことに私もそれを当然のように受け止めていました。

 

そして高校時代の3年間、そのように過ごす中で、成績は下がったのではなく、目に見えて上がっていきました。

 

幼い信仰でしたが、聖書の中の「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」というマタイの福音書6:33の言葉を握った時、神様が集中力や理解する力を与えてくださったのだと思います。

 

決して頭の良い子ではなかった私が、高校3年になる頃にはクラスで1番、学年で3番になり、卒業までキープできたので、大学には推薦で入学が決まり、卒業までの間にアルバイトをして自動車免許を取得する費用を捻出することもできました。

 

 

「受験だから教会休みます」

 

学生にとっては、受験や勉強というのはとても重要なことで、「重要な期間だから、しばらく半年間(または1年とか)教会をお休みします。」という人もいらっしゃり、気持ちはわかるなと思います。

 

けれど私が体験したことは、「信仰というものは、心に平安が与えられるとか心の中の問題であるだけでなく、実生活において、本当に神様の守りと祝福があることをリアルに体験していくことだ。」ということです。

 

「受験だから教会休みます」は、実は非常にもったいないことをしていると私は思います。

 

受験という重要な局面こそ、神様の助けと導きが必要なのであって、神様の助けなしでは難しいと感じる時こそ教会生活を重んじ、上よりの力が必要なのです。

 

「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」

(ローマ人への手紙9章33節)

 

信仰や教会生活と、学校生活や勉強とを切り離して考えがちですが、「神様に信頼していけば、決して恥を見ることはない」と信じ、実際に実生活においても守られてきた経験が一つずつ積み重なっていくことを通し、神様が真実なお方であることを知ることができました。

 

神様が真実なお方であると知ると、教会生活は「苦」ではなく、むしろ、「わくわくして楽しかった」と当時の母教会のことを思い出し、祈ってくださった教会員の皆さんにも感謝しています。

 

 

 

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