ははは、見ろ!人がゴミのようだ!

ゴミのような人は人ではありません。そういった人たちは世界や社会に対する個々の影響力は皆無であり、ゴミという集団ひとくくりによって初めて価値(良い悪いはこの場合おいておきましょうか)を見出されるのです。

世界はゴミで満ちています。ゴミが人のようだといっても過言ではありません。私は、夏の盛り太陽が空から戯れ笑い見下している中で、まさにそれを目撃しました。いや、認識上そうすればいくらか気が楽になるかもしれないから、といったほうが正しいかもしれません。

場所は東京ビッグサイト。日本文化の粋が集結しました。煉獄を感じさせる3日間。30時間近い並び。有明埠頭から臨む朝焼けさえも疎ましいものに蔑んでしまう空気は驚きを通り越して素晴らしいものでした。

一方から見ればゴミの塊。他方から見れば粋の結集。目に見える経済効果。都心から隔離された掃き溜め。見方を変えれば美しく見える。見方を変えれば有用性が判る。そんな戯言。

コミケ3日目正午、燃料気化爆弾が投下されたとしましょう。

日本はどう変わるか。世界はどう代わるか。良くなるのか。悪くなるのか。やつらは有益だったのか。社会に寄生する害虫か。無くてはならない存在なのか。全部消えてしまえば、いなくなればそれがわかるというのか。

自民圧勝の国会が召集・開会されたとしましょう。

某宗教団体若しくは思想団体、はたまた北朝鮮やシナさんがテロリズムか真っ向勝負の戦争か分からないが政治中枢を叩き潰してしまえばどうだろうか。国は変わるか。世論は変わるか。マスコミはどう動くか。繰り返すか。翻るか。

わかりますかと聞くのも愚問でしょう。分かるとすればそれは自己完結的な思いこみや妄想の類なのですから。

理論と感情は相まみえない。どちらかかから双方を認識することは困難です。自己は他を歪め。自己を写す他は他により歪んでいるのです。結局は納得した方が主観における正解なのです。

ねぇ、ムスカさん。

そんな戯れ言。