違う | ぱね便り(旧:V町便り)

ぱね便り(旧:V町便り)

スウェーデン暮らし12年目。おかしいな、いつの間にそんな時間が経ったのだ?と、毎年同じことを考えています。

違う、そうじゃないという気がしてならないが、なぜそうじゃないのかがまだうまく説明できない。

・言語

 

 

「母語を切り替える」ことなど可能なのか、という気しかしない。でもそれは私が日本語というかなり孤立した言語を、完全に母語として獲得しているからなのかもしれない。私にとっての外国語は、日本語が母語として確立してから、その上に人工的に「載せた」ものにすぎず、それらの外国語を私が日本語と同等に使える日は絶対に来ない。

ロシア語とウクライナ語はかなり似た言語であるということなので(私自身はその相似性がどの程度なのかを確認していない/できない)、たとえ生まれた時からずっとロシア語環境で育ってきていても、途中で運用言語をウクライナ語に「切り替える」ことはそれほど難しくないのかもしれない。

でも、母語を切り替えることなど、本当はできないんじゃないかという気がしてならない・・。

母語というのは、「意志の力を超えたところで理解できてしまう」言語だ。たとえ理解したくなくても、理解できてしまうのだ。その意味で、母語は暴力的だ。

今から35年前の初めてのドイツ滞在の時。時代は80年代後半だったので、もちろんまだインターネットなどはなく、外国で暮らしている日本人が日本の新聞を読むためには、国際衛星版という特別な版を読むしかなかった。国際衛星版はもちろん高価だったので、しょっちゅう買えるものではなかったと思う。それに、そういう新聞は、大都市の駅のキオスク(つまり色々な国の人が往来する場所)くらいでしか買えなかった。私たち家族のドイツ滞在は10ヶ月間という期限付きだったこともあり、私はその間、日本の友人が知らせてくれるもの以外の日本のニュースは、ほとんど読まずに過ごしていた。

ある時、私はどこかの大きな鉄道駅のキオスクで、世界の様々な国の新聞がずらりと並べてあるラックを目にした。

そのラックが目に入った瞬間、私の目には「理解できる文字」がものすごい勢いで飛び込んできた。

多分、朝日新聞か日経新聞の国際衛星版だったのだと思うが、様々な言語の新聞が重なっている間からチラリとのぞいていた見出し部分の漢字が、私の目に突き刺さってきたのだ。その勢いは、本当に「暴力的」だった。なんというのか、こちらの意識が追いつく前に、視覚がとらえた漢字の映像がそのまま脳みそを直撃し、そのままその漢字の、というかその見出し全体の「意味」が脳みそに突き刺さった感じがしたのである。

その時に感じたのだ。母語は暴力的だ、と。

特に漢字は「表意文字」であるだけに、読まなくとも「見る」だけで意味がわかってしまう。その点で、「見ただけで、考えずとも意味が理解できてしまう」漢字は、特に暴力的なのだと思うが、母語は視覚だけでなく聴覚で捉えても、考えずとも意味が理解できてしまう言語だ。聞きたくもないことを聞かされることを苦痛に感じるのは、「理解したくなくとも、理解できてしまう」からだ。外国語なら、理解したくなければ自分の外国語回路のどこかを閉じて「聞き流す」ことができるんだろうが、日本語ではそれが非常に難しい。大体、聞きたくもないことに限ってしっかり耳に飛び込んできてしまい、いやでも何を言っているのか理解できてしまうというのが、ぱね地獄耳の常である。

私自身の意志を超えたところで、私自身の意志など完全無視で暴力的に脳みそに突入してくる私の母語が、私を「離れる」日がくるとしたら、きっとそれは私の言語認知機能が終わりを迎える時なんだろう。しかしそうなったら母語だけでなく、そもそも全ての言語が私を離れるに違いない・・

だから、私の意志で「母語を切り替える」ことなんか、私にはできない。

・・・私だけでなく、それが人間にできるのかどうか、私にはわからない。

そして言葉を「弾丸」と表現するこの記事の中のウクライナの詩人に、底なしの痛みを感じる。あの野郎がこんなことをやらかさなければ、ロシア語を話していようが、ウクライナ語を話していようが、それが「ウクライナ人」であることの障害にはならなかったんじゃないのか?ウクライナのように、地理的にも文化的にも言語的にもロシアに近すぎ、だからこそロシアとの間に複雑な歴史を持った国では、元々「何語話者」であるかは、いわゆる「アイデンティティ」の構成要素としては優先度は低かったんじゃないのか?それでよかったんじゃないのか?何語を話しているかでその人の属性は決まらない、という国でいられたのが、ウクライナだったんじゃないのか?

それをあのパラノイア野郎がぶっ壊したのだとしか思えない。そしてこういう「無理なナショナリズム」は、ウクライナにとって損失なのではないかとしか思えない・・


・音楽

 

「ウクライナ研究所、チャイコフスキー音楽のボイコットを訴える」 

 

 

 

チャイコフスキーの音楽は、ロシアのプロパガンダに使われているから、と。
(英語でのアピールはこちら)

 

 

戦争が始まってから、あの野郎に批判的ではないロシア人指揮者などが世界各地のオーケストラから追い出されるということが続いた。そのニュースを読んだ時には、もうこれは仕方がない、と思った。今実際に生きてる生身の人間の話だし、それにあんなことをやらかす暴君の力を借りてこれまで活動をしてきた人なら、それに対してどう態度表明するかは自分で決めるしかなく、その決断が「沈黙」ならば、それはそれで自分で代償を払うしかないだろう、と思ったからだ。

でも、チャイコフスキーって・・・もうずいぶん昔に死んでます(泣)。

彼の残した作品が、あのパラノイア野郎のプロパガンダに利用されてるとしても、それはチャイコフスキーの責任じゃないんですけど(涙)。

それに、チャイコフスキーをはじめとしたロシア音楽・ロシア芸術のあの偉大さこそ、あのパラノイア野郎の罪の重さを、これでもかというくらいに剥き出しにするものなんですけど(涙)。だからこそ、ロシア芸術の偉大さを知っている世界中の人が、というか、ぱねが(←いきなり話の規模が小さくなる)、

そのロシアをここまで汚し、ここまで貶めたあのパラノイア野郎に対し、ここまで激怒し、泣いてるんです(怒)!

こういう怒りを、私はドイツ語を勉強し始めてからずっと、ヒトラーに対して抱き続けてきた。ヒトラーとあのキチガイイデオロギーは、よりによってドイツ文学の巨匠作品をことごとく「非ドイツ的」として焚書にした。ドイツの野蛮人が、ドイツの知性を焼き殺した。詩人と哲人の国、と讃えられてきたドイツの末路。

でも、少なくとも、ヒトラーの蛮行は、私が生まれる前の時代の話だった・・

今、人生も折り返しを過ぎたぱねの目の前で、あのパラノイア野郎が、ウクライナとロシアの全てを踏みにじっている。奴の頭の中にしか存在しないくだらない妄想のために、死ななくてもいい人たちを殺し、なかったはずの憎悪を人々の間に作り出している。ぱねのこの30年を台なしにし、ロシアでロシア語講座に通う、というぱねの計画も、ヴォルゴグラードに慰霊の旅に行くというぱね人生の今後の最大目標も遠ざけ・・・・

・・・・・

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・・・・・

と、毎日無言の怒りをフツフツとさせながら、Duolingoのロシア語に黙々と取り組んでいるぱね。ここ1ヶ月ほどで収集したおもしろ例文は以下の通りです。

1. ・・・・・・・あ、そうですか・・ 

 

 


2. まあ、食べることもあるとは思いますが・・・というか、なんで?

 

 

3. Duolingoでは、色々な動物が牛乳を飲むのですが、ついにトリが登場。 

 

 

4. 懐かしのPet Shop Boysの「Go West」を思い出します。PSBのGo Westは1993年の曲。私が聴いていたのもその頃。

 

・・ああ、「この30 年を台なしにされた」怒りがまたもやフツフツと・・・orz