映画 「沈黙-サイレンス」

久々に 重厚な 実写時代劇を観た想いです。
といっても、実際は洋画なのですが、日本映画の
時代劇と変わらない、否、それ以上の出来栄えに
感動しました

逆に、今の日本映画界で これほど重厚感あふれる

時代劇が創れるのか? そこが残念に思います。
さてその内容は、江戸時代初期の キリシタン弾圧
の話です。
ここまで 酷い仕打ちが必要なのか?
と思うくらい、キリシタンへの拷問、処刑シーンが
これでもか という具合にリアルに続きます。
同じ日本人同士で、凄まじい弾圧の歴史があった。

それを改めて知る思いです。

主人公 ポルトガル人宣教師のロドリゴは、信仰

への強い想いを抱いて 日本へ渡ってきます。
そして 凄惨なキリシタン弾圧を目の当たりにし、
揺れ動いていく様が 心に刺さって来ます。
「このような惨い現実に、主よ あなたは何故

  黙ったままなのですか!?」
これも神の与えた試練なのか?
だとしても 余りに惨過ぎはしないか。
これが本当に、神の導きなのか?

とはいえ 実は、布教を勧めるキリスト教会にも

問題があったのです。
「主は仰った- 世界に赴き、全ての者に 教えを

  授けよ。」
イエスの教えこそが 唯一絶対の真理であり、その
真理を世界の隅々にまで行き渡らせねばならない。
しかし、異なる風土、文化の前では、唯一正しい
真理など決めつけられなく、真理の押しつけに

なってしまうのです。

さらに悪い事は、信仰が “争いの種”になっていく
ことです。
信仰の名の元には、戦いも辞さない。
たとえ命を落としたとしても、殉教者として天国へ
召される。 だから死をも恐れぬ、勇敢な戦闘集団

が出来上がる。
これは、時の為政者にとって 非常に恐ろしい状況
であり、かつて一向一揆などが 大きな勢力を持ち、
天下を揺るがせた事もあったのです。
ましてや、外国からの宗教が 争いの火種となれば、
泥沼の国際紛争に入り込んでしまう。

幕府がキリシタンに対して、厳格な弾圧を行った
のも うなずける事なのです。

宣教師ロドリゴも 追い詰められていきます。
棄教を迫られ、その証として キリストの“踏み絵”を
突きつけられます。
そこで棄教を受け入れれば、キリシタンたちの拷問
が解かれることになる。
けれど、キリストの顔を踏みつけ、信仰を棄てて
しまって良いのか? ロドリゴは心底悩みます。
仲間を救うか、信仰を棄てるか…
そんな悩みの果てに、主の声が聴こえてきます。
「踏みつけて良い。
  私は黙っていた訳ではない。
  ともに苦しみを分かち合っていたのだ。
  その苦しみ、痛みを受け入れるために
  私はいるのだ。」


これは凄い言葉です。
「苦しむ者、痛める者、苦悩の全てを キリストは
  十字架で 背負って下さった。」

ここにこそ キリストの真意、キリストの懐の深さが
あるのではないか。
後世生じた、キリストへの偶像崇拝や 形だけの
信仰なんて、真理とは程遠い

そこから生じた苦悩とかは、主が観ていて下さる。
だから今、人として為すべきことを為していくのだ。
この時、ロドリゴは 形だけの教えを棄て、真理に

一歩 近づけたのではないだろうか。

これはあくまで、私なりの薄学な解釈です。
観終わった後に、いろいろ考えさせられる映画です。
マーティン・スコセッシ監督が、遠藤周作氏の原作に
心底惚れ込み、28年もの歳月を費やして創られた
作品です。
その醸造された、湧き出るような情感を味わってみて
ほしいと思います。