在日/フランス文学
● 鈴木道彦 『越境の時 1960年代と在日 』
僕の亡父と鈴木道彦氏との間には交友関係があったことから、僕は氏の名を知ってはいたのですが、それはあくまでフランス文学の専門家として。だからブックオフで本書を見つけた時には、同姓同名の別人かと思ったほどでした。なぜフランス文学の専門家が在日問題なのか?
本書には、鈴木氏が小松川事件 (僕はこの事件自体を知りませんでしたが)と金嬉老事件の二人の被告、李珍宇(イジヌ)と金嬉老への支援活動を通して行われた、「在日と日本人」問題への真摯な考察が記録されています。そして、鈴木氏の「在日と日本人に関する考察の原点」が、「なぜフランス文学の専門家が在日問題なのか?」の答えにもなっているのです。その辺の関係性がストーリーを生み、まるで小説を読んでいるような楽しさがありました。
簡単に説明すると…
鈴木氏はフランス留学中にアルジェリア独立戦争 (宗主国フランス)に遭遇します。そこで、アルジェリアの活動家やアルジェリアを支援するフランスの知識人等と関係を持つのですが、やがてアルジェリア独立戦争に纏わる諸々を、日本人である自分達に引き付けた場合どう受けとめることができるのかと考えるようになります。鈴木氏は最終的にそれを「民族責任」と呼ぶようになるのです。
※「民族責任」の意味を端的に説明する文章として、
チュニジアの知識人アルベール・メンミを引用します。
植民地的状況とは、民族の民族に対する関係だ。(中略)彼[善意の植民者]は抑圧する
民族の一員であり、望もうと望むまいと、彼がその幸運をわけあったと同様にその運命をも
分け持つように決められている。(中略)彼は、個人としては何の罪もないけれども、抑圧する
グループの一員である限り、集団的責任にあずかっている。(「植民者の肖像」より)
またサルトルの同様な文章も引用しています。
良い植民者がおり、その他に性悪な植民者がいるというようなことは真実ではない。
植民者がいる、それだけのことだ。(「植民地主義は一つの体制である」より)
そして具体的な日本人の「民族責任」を考えるようになった鈴木氏は、以下のような自問に至ります。
もし日本人の名で抑圧する状況が存在したら、そしてその裏返しとして、日本人でないということが抑圧される理由になるような状況があったならば、否応なしに抑圧者に組み込まれる日本人の自分はどうしたらよいのか?
このような心境のなかで小松川事件に遭遇した鈴木氏は、当然の如く犯人である在日朝鮮人李珍宇の支援活動に関わり、その後起きた金嬉老事件に対しても同様な態度を示したのです。