京都電気鉄道だけの電車告知人「先走り」 | レールは、こころをつなぐ道。

12月9日(土)に開催された京都文教大学「ともいき(共生)フェスティバル2017」 に出展していた「伏見チンチン電車の会」ブースで配られていたカードの2枚目イラストを紹介します。 

伏見チンチン電車の会 ⇒ こちら

「電車が来まっせ~」は「電車が来ますよ~」の意味で誰でもお分かりでしょうが、「あぶのせぇ~」「あぶのおっせぇ~」は「危のおすえ~」の短縮形で「危ないですよ~」の意味。

 

1895(明治28)年2月に京都伏見の油掛(京橋)から七条停車場(現京都駅)間に日本最初の電気鉄道が走り始めた時電車に関する法律などもなく人々も電車に対する知識がないため事故も多発し、6か月経った8月に「電車の先走り」をする「電車告知人」を設ける規則が定められ、電車の前後の救助網もこれ以後取り付けられた物で、開業から半年の間は、そのどちらもなく運転されていた。

 

京都電気鉄道 伏見線 

京橋(伏見町下油掛)~七条停車場(東洞院塩小路下ル) 6.7km 

所要時間約40分 時速約10km 

車体全長 約6m 定員 28人 

 

前後の救助網がまだ取り付けられていない時の写真↓

京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』より

 


夜間は常時先走りが義務付けられていたが、昼間は市街地などの危険な区間で電車から飛び降りて数メートル前を、昼は赤旗を、夜は提灯を持って先走りをしていた 

電車は時速10km程度なので飛び降り、飛び乗りをしていたため失敗してケガをする者や電車に轢かれる者も有った。

 

運転台向かって右に先走りの少年が左手に旗を持っている

京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』より

 

そしてこれが、以後各地で開業した路面電車の基本となったが告知人は京都電気鉄道だけの制度となった。

結果的に京電だけとなった電車告知人制度は、世間からの非難も多く京電も廃止を申請していたが、3年後の1998(明治31)年に夜間の、更にそれから6年後の1904(明治37)年にようやく昼間の廃止許可が下り9年間の歴史を終えた。