自然と共に | 一条の光~ダブルストーマ(人工肛門・人口膀胱)と日常と

一条の光~ダブルストーマ(人工肛門・人口膀胱)と日常と

大腸がん治療のため骨盤内臓全摘術を受け、人工肛門と人口膀胱(ダブルストーマ)を持つことになった41男が、ストーマや日々のことをつづります。17年11月に局所再発が見つかり、現在そいつと向き合っています。



今日もいい天気です。日向は暖かいを通り越して暑いくらいです。
もう、半袖半ズボンでウロウロしています。

上の写真は、お気に入りの仕事場。真冬や猛暑では屋外は厳しいですが、気候がよく、時間が許す時はこの河原に来て木陰のベンチに腰掛けて、翻訳の仕事や読書、文筆活動?をしています。

川はサラサラと流れ、鳥はチチチと鳴き、風がソヨソヨと木々を揺らす。
まだまだ川の浅いこの辺りでは、川底の石の凹凸合わせるかのように水面が波打って、たくさんの光を放っている。

時々、サギが飛んできて、川べりにスッと立っている。この人も、馴染みのお客さん。

空気も静かで気持ちいい。ここが東京都とは!?

最近では、硬いところにしばらく座っていても不自由さや痛みを感じなくなっていて、ストーマにシワが寄ることもないので、快適にいられます。


それから、4月の末に、庭に茶の木を2本植えました。

茶のことは、わたしの仕事と深い関わりがあるので、散々調べました。何百年も昔の文献も読んだり、茶の産地に行ったりもしました。中国の福建省武夷山や浙江省杭州などにも単身潜入?していろんなものを見てきました。

なのに、今まで、自分で茶の木を植えて茶を作ってみるという発想がなかったのですよね。
忙しかったのですね、きっと。

それで、冬の間に茶を植えたいと思い立ち、4月の最初の茶つみの時には間に合いませんでしたが、それでも4月末に植えて、まだ大きくなっていない新葉を摘みました。4月の新葉といえば、一槍ニ旗の高級緑茶でしょう!
古い文献に残されているやり方と、杭州で見た殺青(水分を飛ばし乾燥させること)の方法を頼りに、作ってみました。



うちは電気コンロなのでこういう時には便利。
鍋でから炒りし、指で押さえながら乾かしていきます。
本当は中華鍋の大きいようなもので茶葉を多めに入れて、手のひらの一番手首よりのところで押さえつけ回しながら、豪快に繊細に作っていくのですが、なんせ茶の木も小さく、30枚ほどしか葉を摘めなかったので、止むを得ず写真のような格好に。

それでも、作っていると緑茶のいい香りがしてくる。

そして出来たのが、これ。




使ったりしたので減りましたが、こんな感じ。

香りに派手さはないのですが、飲んで驚いたのが、「韻」の感覚。

いい茶を口に含んで飲み込むと、鼻腔から脳の方に、香りというか、温かい何かがホワッと立ち登って、目の奥がジーンと気持ちよくなる感覚があるのですが、結構お金を積んでもこの韻をかんじる茶というのは容易には手に入らない。

でも、この自家製の茶にはその韻がしっかりあるのです。

やっぱり、摘みたて、作りたてで呑むからなんでしょうねぇ。お金はかからずとも、経験的に、これは最高級の贅沢と思います。

これから葉がだんだん大きくなってきますが、時期を見て今度はウーロン茶を作ろうと思っています。

それから、それから、

2月末に植えたジャガイモが、大きく大きく成長しました。

でもこのジャガイモ、普通の育てるセオリーを結構無視しています。

種芋は半分に切る、と言いますが、わたしは丸ごと土に入れました。

芽が出てきたら、間引くのがセオリーですが、ほとんど間引いてはいません。

ジャガイモの収穫をたくさんの望むならそうすべきなんでしょうが、わたしはジャガイモをたくさん欲しがってはいません。

じゃあ、なんで植えるんだ、ということになるのですが、
わたしは、第一に、ジャガイモに、自然に、スクスクと育って欲しいのです。その結果としてジャガイモとして頂ける分だけを頂く。それでいいと思っています。

種芋を切ったり葉っぱを割いたりしてまで、たくさんの芋を欲しがる気にはなれないのです。

これは多分、わたしが、切られたり、割かれたりしたから、特にそう思うのでしょう。

それから、あまり多くを望めなくなっている身体と戦っているということもあるでしょう。
欲しがれば、際限はない。
そこにあるもの、ここにある状態、その範囲の中で日々の一歩一歩を楽しんだりよろこんだりしながら生きなければいけない。

たかがジャガイモ、でもこれは深い深い、考えるべき課題なんです。

こういう風に考えていくと、そこにある自然が、人にとって大事なものになるのでしょう。
望まなくても、欲張らなくても、そこに自然がある。
いろんなことで苦しむ人が、病院や自室の窓から外を見て色んな感情に浸るというのは、そういうことなんでしょう。

そういう時、たかが窓一枚分の景色だと嘆く必要はないと思います。
よく見れば、その一幅の窓の景色の中に、自分の知らないものがあちこちにある。名前も言えないそれらのものが、無限にある。数え切れないほどの命がそこにある。

一幅の景色ですら、人間がそれを切り取って、言葉やビジョンにして認識するには余りに広大すぎる。

そのデッカい世界の中で、わたしたちは命を燃やして、笑ったり泣いたりしながら生きている。

………今日はオチはありません(笑)