どうも、はちごろうです。


では、昨日の「かぐや姫の物語」の感想、続きです。




いまのすべてが 過去のすべて



さて、そんな現状のなか制作された本作は、
まさに「天才・高畑勲」の、そして「スタジオジブリ」の
過去と現在が詰まった一作となっています。
まさに「いまのすべてが 過去のすべて」といった感じで。
本作で高畑監督が目指そうとしていたことの一つが「画」ですね。
高畑監督が本作でやろうとしていたのが「動く日本画」。
人の手で描かれたような絵がその質感を保ったまま、
キャラクターと背景が同化した状態を成立させようと試みている。
それはTVアニメの絵がデジタル作画の向上によって
必要以上に線の均整がとれてしまったことにより、
人の手によって作られた質感が失われたことへの不快感があったのだと思う。
その不快感は本作でさらに先鋭化しているように思われる。
自ら画を描かない高畑監督ゆえの「絵に対するこだわり」。
画面全部に色や線を引かない、ところどころ余白を残した画が、
結果的に観客の想像力をかきたてる効果が出ていて、
登場人物が不意に見せる感情の起伏までもが
実に濃密に感じられるようになってます。
一方、物語は原作である「竹取物語」では語られていなかった
かぐや姫の心の内を探っていく内容。
彼女が竹の中からこの世界に生を受けた理由、
なぜ彼女がこの地を選んでやってきたのか、
そしてなぜ頑なに婚姻を拒んだのか、ということを
高畑監督自らの解釈で伝えようとしているわけです。
詳しくは語りませんが、いかにも高畑監督らしい、
ひいてはスタジオジブリらしいメッセージだと思います。




監督の犯した罪と罰



しかし、宮崎駿が高畑勲にゆだねていた「構造」を
自前で用意したことによって弊害が生じたように、
高畑勲にもそうした弊害が出てしまっているように思いました。
それはこの作品を高畑監督自身が手掛けることの致命的な問題点。
つまり、簡単に言えば「原作の結末自体が不合理」ってことですね。
「実は私は月からこの星にやってきて、そろそろ帰らなければならない」と
土壇場でいきなり主人公が言い出すという、このトンデモな展開。
この結末を「はい、そうですか」ってすんなり受け入れる観客は
いまの時代にはそんなにいないと思うんですね。
それこそ今だったら「超展開過ぎてクソワロタwww」って
2ちゃんあたりでスレッドが立ちそうな感じというか。
この結末はもはや完全にファンタジーなわけで、
それこそ宮崎駿が担当した方がいいくらいなんですよ。
で、おそらくそのことは高畑監督本人が一番わかってたと思う。
以前から「竹取物語は誰かが映画化するべき」と公言しておきながら
なかなか自身で映像化に取り組もうとしなかったことからも明らかで、
最終的には非現実的な結末を迎える「竹取物語」と
生身の人間の心の機微を描いてきた監督自身の作風が、
根本的に合ってないんですよ。
本作で監督がやりたかったことはかぐや姫の心情の構築だけで、
物語自体には間違いなく興味はなかったんだと思うんですね。
だから登場人物の心情に迫る場面は非常にうまいこといってるのに、
結末を含め、ところどころに差し込まれるファンタジー部分になると
一気にちぐはぐな印象になってしまうな、と感じました。


日本のアニメーションをけん引してきた高畑勲と宮崎駿。
宮崎駿がそのすそ野を広げる役割を果たしたとするならば、
高畑勲はその頂点を高める役割を果たしてきました。
今回、高畑勲は本作でさらにその頂をさらに押し上げたことは確かです。
スタジオジブリの、日本のアニメーションの新たな到達点。
是非、劇場で観届けていただきたいと思います。
是非是非!



[2013年11月24日 T・ジョイ大泉 1番スクリーン]