どうも、はちごろうです。


今回紹介する作品は、ネタバレせずに感想を書くことは不可能なので、
あらかじめ今回は「ネタバレありあり」になります。あしからず。
とはいえ、タイトルの意味をちょっと考えれば
どんな展開になるかは想像できるようになってますが。
さて、映画の話。




「劇場版魔法少女まどかマギカ [新編] 叛逆の物語」





※なんか予告編が張り付けられなかったのであしからず。





2011年に大ヒットした魔法少女アニメの劇場版。
総監督新房昭之、脚本虚淵玄、音楽梶浦由紀など
TVシリーズのスタッフが再結集。

中学2年生の鹿目まどかは、クラスメートの美樹さやか、佐倉杏子、
そして先輩の巴マミとともに魔法少女として活躍。
転校生の暁美ほむらも加わり、5人で魔獣ナイトメアと格闘していた。
昼間は楽しい学園生活、夜はナイトメアをやっつける二重生活で
5人はこの上なく楽しく日々を過ごしていたが、
そんな日常に疑問を感じたほむらは独自に調査を開始。
この日常が魔女によって作られた偽りの「日常」であるという仮説を立て、
みんなの記憶を書き換え、彼女たちを町に閉じ込めた魔女が
誰なのかを突き止めようと奔走するのだった。




一応、TVシリーズのざっくりしたあらすじ



・・・・・とはいっても、
原作のTVアニメを観ていないと何事かわかんないと思いますが、
本来の魔法少女ものアニメとは一線を画すダークな世界観と、
「魔法少女になる」ことに葛藤する主人公の姿を描き、
多くのアニメファンを熱狂させたTVアニメ「魔法少女まどかマギカ」。
「願いを一つ叶える代わりに魔法少女として魔女と戦って」と
謎の生物キュゥべえに頼まれるまどかたち。
だが魔法少女としてキュゥべえと契約すると、

・永遠に魔女と戦わなければいけなくなる。やられれば死ぬ。
・戦闘能力を維持するために魂をソウルジェムという小瓶の中にいれ、
 身体はゾンビ状態にさせられる。
・ソウルジェムが負の感情によって一定状態まで濁りきると
 今度は自分が魔女になって魔法少女に倒される運命を背負う。

とまぁ、はっきり言って「割に合わない」わけですわ。
で、主人公のまどかが戸惑う間にさやかが魔法少女になり、
絶望して魔女になり、知り合った魔法少女が次々と死に、
そしてまどかを魔法少女にしないために
ほむらがパラレルワールドで戦い続けていたり、と
絶望的な展開が続くわけですわ。
で、結局まどかはほむらの反対を押し切って魔法少女となり、
「魔法少女が魔女にならずに魔法少女として天命を全うする世界」を願う。
その結果、すべての魔法少女が魔女になる悲劇を回避し、
代わりに自分がその世界のしくみ「円環の理」そのものとなる。
そして一人残った魔法少女のほむらは魔獣と戦い続ける。
・・・というのが、TVシリーズのざっくりとしたあらすじですわ。




本作の「ラム」は誰か?



といった出来事を経て、今回の冒頭の展開なわけですが、
まどかをはじめとした魔法少女たちが魔獣ナイトメアと戦ってる、
いわゆる従来の魔法少女もの的な展開に対して、
どこか違和感を感じたほむらが調べた結果、
その日常が誰かによって作られた偽りの日常だったことを突き止める。
この展開。お古いアニメファン、映画ファンなら気付くと思いますが、
いまから30年ほど前に公開されたアニメ映画の傑作、
押井守監督の「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」ですね。
登場人物たちが「学園祭前日の友引高校」という日常を
延々と繰り返していたことに気付いてその世界の謎を解こうとするという。
で、調べた結果その日常は結局主人公のラムが願ったものだった、という。
じゃあ、この世界の「ラムちゃん」は誰なのか?と。
私は最初、まどかが作り出したものだと予想してたんですね。
この「魔法少女が魔法少女として楽しく過ごしてる日常」こそ、
「運命を全うした魔法少女たちの救済の場」、つまり「円環の理」の一部だと。
ところが結局この偽りの日常を作り出したのは魔女であり、
本作の中で唯一魔女になることができる存在、
つまり一人残った魔法少女ほむらだったというオチがつくわけですが。




自己否定は「叛逆」とは呼ばないのでは?



でも私はこの展開には違和感があるんですよ。
自分の予想が外れたからというわけではないんですが、
本作は「叛逆の物語」と銘打っているわけだから
当然ながら誰かが誰かを裏切る物語なわけです。
となると、本作で一番の正義であるまどかのことを
彼女を一番慕っていたほむらが裏切るという展開が自然なわけです。
確かに彼女は最後の最後でまどかのことを裏切り、
今度は自らが「悪魔」となって自らが望んだ世界を作るのですが、
だとしたらほむらが最初に作った「魔法少女としての日常」を
彼女自身が否定する展開はおかしいし、
否定するくらいなら自分にとってのハッピーエンドである
「普通の中学生としての日常」を最初から作ればよかったのではないかと。
だからこそ、冒頭の日常がまどかの作った世界だとした方が
よっぽど整合性が取れていると思ったんですが。




制作者たちがまどかに込めた「覚悟」



とはいえ、本作の抱える構図というのは実に深いんですよ。
ほむらが望んだ世界というのは何の不幸の起きない
いわゆる「終わりなき日常」っでやつで、
彼女はたとえ自分が悪魔になってもまどかが幸せに暮らす日常を願う。
それは一見「正義」のようだけど、作中で彼女も言っていたように
その想いはまどかへの「愛」という究極の「利己主義」=「悪」なわけです。
しかし、そんなほむらによって作られた世界の中で
まどかは無自覚なうちに本能的に「正義」を望むわけです。
それは平穏な日常をいつまでも甘受する側ではなく
自らを犠牲にしてでも日常を護る側に立つ覚悟であり、
そんなまどかの覚悟は、結局のところ制作者側の覚悟でもあり、
自らが社会を護っていく覚悟の表明が込められていると感じました。


おそらく本作で物語が終わるわけはなく、
ほむらによって作られた「日常」に気づいたまどかが
自らの運命を思い出してほむらの前に立ち向かう、
という展開になっていくのではないかと予想するけれど、
バッドエンディングがお好きな「まどマギ」スタッフは
さらに重苦しい展開を作り出すのかもしれないですね(--;



[2013年11月3日 新宿ピカデリー 1番スクリーン]