どうも、はちごろうです。

昨日は酉の市の二の酉でした。
せっかく近所に大鳥神社があるのでちょっと行ってきました。
とはいえ神社へのお参りはせずに屋台を冷かしてたんですが、
今年はB級グルメの厚木シロコロホルモンの屋台があり、
試してみようかと買ってみました。
家に帰って食べたらもうただの脂身。
確かに酒の肴にはもってこいだとは思いましたが、
食べすぎにはご用心って感じでしたね。
さて、映画の話。

「映画と恋とウディ・アレン」

アメリカを代表する映画監督の一人、ウディ・アレンに迫るドキュメンタリー。








ウディ・アレンと私


知的でおしゃれな作品を量産し続けている巨匠ウディ・アレン。
日本でも彼のファンは多数いて、僕も結構好きです。
最初に映画館で観た作品は「ギター弾きの恋」だったかな。
昨年惜しまれつつも閉館してしまった恵比寿ガーデンシネマ。
ここは開館からずっとウディ・アレンの新作を上映していて
「スコルピオンの恋まじない」とか「さよなら、さよならハリウッド」とか、
関東在住のウディ・アレンファンにとっては重要な劇場でした。
とはいえ、彼の初期の作品とか全然知らなかったんですよ。
「アニー・ホール」も見たことは見たけど当時はわからなかったし。
だから今回のドキュメンタリーは非常に新鮮でした。



笑いと映画と悲観主義


そもそもウディ・アレンは本名アラン・スチュワート・コニグスバーグ。
高校在学中から新聞にジョークを投稿して原稿料をもらい、
10代にして親よりも稼いでいたこと。
その後ニューヨーク大学に進学するが中退。
TVドラマなどの構成作家をするかたわら、
スタンダップコメディアンとして舞台にも立っていたこと。
当時から玄人受けのギャグで一部から絶大な人気を得ていたが、
極度の人見知りから客前では全く受けなかったようだ。
その後、徐々に人気を獲得するようになった頃、
テレビのトーク番組に出演して人気を博す。
この頃はカンガルーとボクシングしたり、
パレードの楽団に所属するチェロ奏者などの
ドタバタコメディで体を張っていた。
そして1965年の「何かいいことないか子猫チャン」で
初めて映画に出演。その作品で脚本も担当する。
ところが制作会社が彼の脚本を勝手にリライトしたことで
彼にとっては非常に不本意な作品となった。
そしてこの出来事から、彼は自分に全権を預けない人間とは
映画を撮らないという決意を固めていったのである。
で、その後は「ウディ・アレンのバナナ」とか「スリーパー」など
コメディ作品で高い評価を受けていたんだけど、
77年に「アニー・ホール」でコメディを封印しオスカーを受賞。
その後は「マンハッタン」や「ハンナとその姉妹」など
年1本のペースで作品を量産し続ける一方、
ダイアン・キートンやミア・ファローなど共演者とも浮名を流し、
ミア・ファローの養子だった女性スン・イーと結婚し
一大スキャンダルになるなど波乱の人生を送るわけです。
70歳を過ぎても「ミッドナイト・イン・パリ」でオスカー脚本賞を獲り、
いまでも健在ぶりをアピールした御大ウディ・アレン。
だが当人は極度の悲観主義者で、
人生の無意味さについていまでも気に病んでいる。



アレンと家元


10代のころからコメディの才能にあふれ、
コメディアンとして若いころからめきめきと頭角を現し、
その後映画界に進出して大成功を収め、
共演者や同業者からも一目置かれる才能を持ちながら、
本人は「人生は無意味だ」と日々悲嘆して暮らしている。
そんなウディ・アレンを見ていてある人物を思い出した。
その人は16歳の時に落語家としてデビューし、
前座のころからその才能を周囲に認められ、
のちにテレビ界に進出してバラエティ番組「笑点」を作り、
その後参議院議員に立候補して政界にまで進出。
ファンはもちろん、他の芸能人・文化人から尊敬されても、
本人は「落語とは、人生とは」と死ぬまで悩み続けていた。
それが今日でちょうど一周忌となる、落語家・立川談志である。


ウディ・アレンと立川談志にこんなに共通点があるなんてと、
いまさらながらに驚いてしまったんですが、
(そういや二人とも若くて可愛い娘が好きだったっけ)
「笑い」を通して人間を語ってきた芸人の性というか、
人間は常識と非常識のはざまで苦悩し続けると
いずれ「世の無常」に行きつくのかなぁ・・・と感じた一本でした。