どうも、はちごろうです。

今月はあまり観たい映画が公開されないなぁと思ってて、
それじゃあこれを機に身体を休めようかと思っているくせに
なんだかんだで予定を入れてしまう自分。
昨日も結局いつものように映画を2本ハシゴ。
林原めぐみの「thirty」という曲の歌詞にも
「10年後の私には あんまり無理をしないで」とあるけれど、
一度休んでしまうと二度とこのペースで動けなくなるのではないかという
強迫観念にも似た思いを抱えて、これからも無理をしていくんだろうなぁ。
さて、映画の話。

「虹色ほたる ~永遠の夏休み~」

2004年にネット上で発表された川口雅幸原作の小説をアニメ映画化。
監督はTVアニメ「ワンピース」「トリコ」の宇田鋼之介。
2001年夏、小学6年生のユウタは一人で蛍が丘ダムに旅立つ。
そこは1年前に交通事故で亡くなった父親と、
幼いころカブトムシを取りに来た思い出の場所だった。
旅の途中、ユウタは喉が渇いて動けなくなっていた老人を助ける。
ユウタに水をもらった老人はこれから雨が降ることを告げ、消えてしまう。
ほどなくして老人の言葉通りに大雨が降る。道路は雨水で遮られ、
鉄砲水に足を取られたユウタは流されていってしまう。
ユウタが気が付くと、そこは夕焼けに染まる原っぱだった。
そこがどこだかわからないでいると、ユウタの前に一人の少女さえ子が現れる。
さえ子は後からやってきた少年ケンゾーにユウタのことを従兄弟だと告げ、
ユウタはそのまま3人でさえ子の家まで連れて行かれる羽目に。
しかも出迎えてくれた老婆も当たり前のようにユウタを迎え入れる。
しかも居間のちゃぶ台に置いてあった新聞の日付は昭和52年。
ユウタはいつの間にか蛍が丘ダムが出来る直前、
ダムの底に沈む前の深山井村にタイムスリップしたのだった。
何が起こっているのか分からないユウタの目の前に昼間の老人が現れる。
老人は水をもらったお礼にユウタの命を助けると告げ、
ただし手続きのために1ヶ月間ここで暮らすよう言われる。
翌日からユウタはケンゾーとさえ子の3人を中心に
村のみんなと最後の夏休みを過ごすことになるのだが・・・。








手描きで作画することにこだわる目的


東映アニメーションが約30年ぶりに製作したオリジナルアニメだそうで、
なんでも作画に関しては全て手描きで製作した意欲作なんだそうな。
CGが活用されるのが当たり前の昨今のアニメ制作に逆行するように
手描きでの作画にこだわった映画といえば
2008年のスタジオジブリの「崖の上のポニョ」がありますが、
出来あがった画の方向性はまるっきり逆な感じがします。
「ポニョ」の場合は人の手でどれだけ精巧に、細密に作画が出来るか?
といったところに主眼が置かれていたように思うのですが、
本作の場合は絵本作家いわさきちひろの作品世界を参考にしたそうで、
水彩画で描かれたような、あくまで「手描きの画」の質感にこだわったそうだ。
だから、いわゆるキャラクターの輪郭線がきちんと繋がっていなかったり、
キャラクターの指先など細部が敢えて雑に描かれているんですね。
で、こうした作画の方向性はある意味正しいとは思うんですが、
手描きの質感を手描きで表現してアニメにするってのは、
なんだか普通というか、当たり前な感じがするんですよね。
同じように手描きの画の質感にこだわった作品といえば
スタジオジブリの「ホーホケキョ となりの山田君」ってのがあるけど、
あれは原作者いしいひさいちの画をCGでどこまで再現して動かせるか、
それこそ原作の絵の質感をそのまんまCGで再現したところがすごかったわけで。
(作品はヒットしなかったけど、技術的にはすごいことやってたのよ当時。)
そういった意味では、本作が手描きにこだわった効果は
あまり出ていないような気がしました。



夏の田舎の子供達の風景


さて、本作の舞台は1977年、ダムに沈むことが決まっている山奥の村。
ひょんなことから村にタイムスリップした主人公のユウタは、
そこで知り合ったケンゾーとさえ子と共に村の最後の夏休みを過ごすことになる。
夜も明けきらないうちから神社の裏の林に出かけてカブトムシを取ったり、
渓流で川に飛び込んだり、わき水で冷やしたトマトをかじったり・・・。
そうした「かつてあった田舎の子供の夏の風景」の描写自体はいいんですが、
この作品にはユウタが居候することになる家のおばあちゃんの他には
「青天狗」と呼ばれている神社の神主ぐらいしか大人が出てこない。
だからなぜこの村がダムに沈むのかといった詳しい事情は語られないし、
もちろん大人たちは他の土地への移転作業で忙しいからなんだろうけど、
自然豊かな田舎の子供たちの日常の描写が続くのは
ちょっとご都合主義的というか、懐古趣味的といえなくもない。
まぁ、この設定自体は許容範囲内だと思うけれど。
もしかしたら「となりのトトロ」的な世界観に対して
ちょっとした対抗心があったのかもわからないです。



失われていく風景、失われていく命


さて、そんな子供たちの日常が描かれていく前半から、
後半、すでにユウタより先にタイムスリップしてきた人間がいることが判明。
しかもその人物がこの世界から現実世界に戻ることで、
自らの命を終わらせようとしていることがわかることで、
本作の根底に流れる「全ての物事には終わりや別れが来る」ということ、
そして「終わりが来るからこそかけがえがないのだ」ということが
くっきりと浮かび上がってくるわけです。
ユウタにとってこの村で過ごした日々も、ダムに沈む村自体も、
そしてユウタの父やすでにタイムスリップしてきた人物の命も。
しかし自ら命を終わらせようとしているその人物に対して
ユウタは諦めずに生きろと願うわけです。
そしてこの村から現実の時間に戻ることで村での互いの記憶がなくなろうとも、
いつか絶対に現実世界で見つけるからと固く誓うわけです。
この後半の展開は非常に力強く、また感動的でもあるわけです。
この後半部分は見ごたえありましたね。



「時間を無駄に出来ない」のはわかるけど・・・


ただ、残念なのは最後。現実社会に戻った彼らが成長して、
お互いの記憶がないままで再び蛍が丘ダムに戻ってくるんですが、
ここでお互いが「あの夏の日」に出会ったことを
感覚的に思い出していく重要なシーンが非常に雑なんですね。
ここをきちんと時間を取って描いていれば相当点数高かったのに
なんか申し訳程度に数分で終わらせてしまって、
このラストはねぇ、本当に残念でしたよ。
それと、エンドロール。ここでスタッフロールが流れる横に
本編の映像がハイライト的に順番に流れていくんですが、
明らかに本編で使ってないだろ!って映像が多数あるんですね。
しかもそのほとんどが村での子供たちの日常のシーンばかり。
おそらく本当はユウタ、ケンゾー、さえ子の他にも村の子供たちがいて、
その子たちのこともきちんと描いていたんだと思うんだけど、
この辺をどうやらカットしてしまったみたいなんですね。
確かに、途中で3人以外の子供が唐突に物語に絡んでくる、
なんていう展開があるんですが、
途中で幾つかの描写をカットしていると考えれば
ところどころなんであんなに展開が唐突だったのかということも
なんとなく理解出来なくもないなと思いました。
ただ、その方針は完全に逆効果だと感じましたが。

というわけで、東映アニメーションがジブリに対抗して
オリジナルアニメを作ったというその意欲自体はいいんですが、
残念ながらいろんな点で「惜しい!」って感じでした。
どうせ本腰入れていいものを作りたいんだったら
妥協せずやりたいこと全てやればよかったのに。
本当にいろんな点で残念な作品でした。