どうも、はちごろうです。

先週末から風邪がぶり返してしまいまして、
今回の主な症状は鼻詰まりです。
そんな状態で観るにはちょっときつい一本をご紹介。
では、映画の話。

「ヒミズ」

古谷実の同名漫画を「冷たい熱帯魚」の園子温監督が映画化。
主演の染谷将太と二階堂ふみはヴェネチア国際映画祭で
最優秀新人俳優賞をW受賞したことでも話題。
東日本大震災後の日本。実家のボート屋を手伝う15歳の少年・住田。
彼は誰にも迷惑をかけない「普通の人生」を望んでいた。
父親はアル中で家に寄り付かず、たまに帰って来ては暴力をふるい、
母親も子育てを放棄し、知らない男と一緒に家を出ていってしまった。
ボート屋の周りには、夜野と名乗る男をはじめとして、
震災で一切をなくした大人たちが住みつき始め、
クラスメートの女生徒・茶沢は住田のボート屋を手伝い始める。
彼女もまた、親の愛に恵まれず生きていた。
だが、父親の作った借金を取り立てに来たサラ金業者に殴られ、
酔った父親に「お前はいらない」と言われ続けた住田は衝動的に父親を撲殺。
もはや普通の人生も望めなくなった彼は、
せめて一度でいいから世の中の役に立ちたいと思い、
悪党を殺すため刃物を用意して街を徘徊するのだった。



自己実現理論(欲求段階説)について


感想を書く前にここでちょっと心理学のお勉強を。
アメリカの心理学者にアブラハム・マズローという人がいて、
この人は「自己実現理論(欲求段階説)」というのを提唱した。
この「自己実現理論」によると、人間の欲求というのは
「生理的欲求」「安全の欲求」「所属と愛の欲求」「承認欲求」
そして「自己実現の欲求」の5段階に分かれており、
欲求が満たされるたびに次の段階へと進んでいくという。
例えば「何か食べたい!」、これは生理的欲求ですね。
でも何か食べたいからといってスーパーに行って何か商品をつかんで、
金も払わずにその場で食べたら警察に突き出されるわけです。
だから「誰にも邪魔されず食べたい!」という欲求が生まれる。
これ、すなわち第2段階の「安全の欲求」なわけです。
では誰にも邪魔されずに食べ物を食べる場所が確保できたら、
今度は食べ物をえり好みしたくなるわけです。
例えば「リンゴが食べたい」というように。これが「所属と愛の欲求」。
さて、誰にも邪魔されずにリンゴが食べられることができると、
今度は、変な言い方になりますが、リンゴを食べることを誰かに承認してほしくなる。
つまりきちんと合法的な手段でお店からリンゴを手に入れたくなる。
これがつまり「承認の欲求」となるわけです。
さて、合法的な手段でリンゴを手に入れ、安心して食べる空間が出来た。
となると、人間は最終的にそのリンゴの調理方法にこだわり始める。
アップルパイで食べるか、焼きリンゴで食べるか。
つまり、手に入れたリンゴに例えば「生ハムを巻いて食べたい!」と
独自の調理方法を模索する。これがつまり「自己実現の欲求」となる。
・・・とまぁ、このように人間の欲求・欲望というものは
充たされれば充たされるほどより高度なものを求めるようになるわけです。



「自己実現欲求」という病


戦後の高度成長によりほぼ全ての日本人に生活の苦労がなくなり、
人は皆、「自己実現の欲求」を模索できるまでになった。
しかしバブルが崩壊して20年、日本の景気は着実に悪くなり、
人々の生活が成り立たなくなるほどにまでなってしまった。
にもかかわらず、多くの日本人は「自己実現欲求」にとらわれ続けた。
生まれたからには他の誰でもない自分だけの幸せを模索できる。
自分たちは「世界に一つだけの花」なのだ、と。
しかし、その欲求を模索するためにそれらの欲求の土台となる
「所属と愛の欲求」や「承認欲求」、「安全の欲求」が必要なのである。
だが、いまの日本にはまさにそんな「自己実現欲求」という呪いにかかり、
自らが「自己実現」を追及する権利が無いことに気が付かない、
いや、うすうす気づいているが完全にそのことを無視し、
生活を、家族を、社会をないがしろにする大人たちであふれているのである。



「普通の人生」を望むことの特殊性


さて、ここからが本題。
映画の冒頭。スクリーンには大震災でがれきの山となった町が広がる。
それはまさに、まともな生活を送ることすら危うい有様になってしまった
いまの日本の、日本社会の投影である。
そういった意味で、被災地で撮影をしたことは至極妥当であるといえる。
主人公の住田はそんながれきの山のような現状から目をそらし、
自己の幸福を追求することを止めようとしない、
いってみれば「自己実現病」にかかった大人たちを冷めた目で見ながら、
「普通をなめるな!」と冷静に、かつ高らかに主張する。
金銭的な富も、社会的成功も必要ない。実現したい自己もない。
ただ誰にも迷惑をかけず常識的に暮らしたい、と。
そんな住田の考えは、いまの日本人に一番欠けている
「身の丈を知る」という能力がきちんと機能している、
いわば一番まともで、だからこそ特別な存在なのである。



常識と非常識、正気と狂気の境界線


しかし、残念ながら彼は自分の父親を殺し、
彼が望んだ「普通の人生」を自らの手で諦める羽目になる。
そして彼はそんな自分の存在を一度でいいから世の中の役にたてたいと思い、
悪党を殺すために刃物を忍ばせ町をさまよい歩くようになる。
それはまさに常識と非常識、正気と狂気の境界線を綱渡りしているようですらある。
だが、園監督はそんな住田に、そして観客に語りかける。
世の中の善悪の境界線はあいまいであることを。
欲求の土台を築けずに自己実現だけを模索させられる人間の不幸を。
自ら不幸を望む人間もいることを。善意を強要することもまた悪であることを。
そして、自分のことを認め、そして心配してくれる存在が
実は身近に、しかも確実に存在していることを。



いまも日本のどこかにいる「住田」たちへ


暴力と悪にあふれたこの映画のラストが驚くほど希望にあふれているのは、
震災や原発事故、政治や経済の不振による現状を認識し、
再び一から欲求の土台を築き直す役目を負う羽目になった、
次世代の日本人の典型である「住田」という少年が、
とんでもない確率の奇跡と自身も気づかなかった善意に守られ、
自暴自棄から社会にも、自分にも刃を向けず、
社会のルールの中で自らを再生させようと決意するからである。
自ら社会の現状を冷静に分析し、立て直す道を模索する、
これからの日本を背負って立つ全国の「住田」に幸あらんことを。
そして「自己実現病」に冒された大人たちが
「住田」たちの行く手を阻むことが無いように。

なんか今回は感想というより社会論みたいになりましたが、
そうした思考のたたき台としては最適な作品でした。
腹をくくって観に行ってください。おススメです!