どうも、はちごろうです。

今月は観たい映画が毎週複数本公開されて
どれを観て、どれを諦めるかの見極めが大変。
今週末も「ヒミズ」「マイウェイ」「月光ノ仮面」「ロボジー」の4本が公開。
それに先週公開の「哀しき獣」も評判いいし、
「幕末太陽傳」のリバイバル上映もやはり観たい。
さて、週末どれを観ようか。ま、とりあえず先週末観た映画の話を。

「サラの鍵」

第二次大戦中のフランスで実際に起きたユダヤ人迫害事件を下敷きに、
ある少女の数奇な運命と、その事実を知ることとなる
アメリカ人女性ジャーナリストの運命を描いたドラマ。
1942年7月16日。ナチス占領下のフランスで、
ユダヤ人居住区の住民が警察により一斉に検挙され、
収容所に送られるまで一時的にヴェルディヴの屋内競輪場に連行された。
夏の暑い日、大量に集められたユダヤ人たち。
食料はおろか水も支給されず、トイレも使うことを許されなかった。
そんなユダヤ人の中に10歳の少女サラ・スタジンスキがいた。
彼女は警察が家族を検挙しにやってきた際、
弟ミシェルをかくまおうと子供部屋の納戸に押し込み、
「必ず戻ってくるから」と言い残して鍵をかけた。
サラはその後、両親から引き離され強制収容所送りになるが
弟との約束を果たすため脱走を企てる。
それから月日は流れて2009年、アメリカ人ジャーナリストのジュリアは、
フランス人の夫ベルトランと一人娘のゾーイと幸せに暮らしていた。
ある日、彼女は担当している雑誌でヴェルディヴ事件の取材をすることになった。
調査を進めていくうち、ゾーイが義理の両親から譲り受けようとしているアパートが、
かつてのユダヤ人居住区にあったことを知る。
不安に思い、ホロコースト史料館でそのアパートの住所を調べたところ、
そのアパートにはスタジンスキという名前の
ユダヤ人家族が住んでいたことを知るのだった。



不都合な過去と向き合う覚悟と責任


1995年、ときの仏大統領ジャック・シラクがその存在を認めたヴェルディヴ事件。
第二次大戦中、フランス警察がナチスのユダヤ人迫害に加担していたという
フランスの近代史のなかでも暗部とされていた事件である。
この作品はこの史実を下敷きにして作られたフィクションであるが、
都合の悪い事実と向き合う覚悟とその責任について考えさせられる一本である。
まぁ、この事実が公表されてからまだ日が浅いこともあり、
調査や研究が進んでいないところもあるけれど、
自国の過去の戦争犯罪と真摯に向き合おうとする姿勢は見習うべきところである。
なにしろ日本人は何でもかんでもすぐに忘れたがる国民だからね。
たとえば南京大虐殺とか従軍慰安婦問題から杉原千畝まで
日本は第二次大戦中の出来事を善悪にかかわらず全て忘れようとしてしまうから、
外国から非難されて賠償を請求されても後世の人間が独自で事件を検証できない。
これは本当に問題だと思う。まぁ、ここでこんなこと書いてもしょうがないんだけど。



なぜか開かない扉


しかし、この歴史的事実と向き合うことを広く共有しようという意気込みはいいんだけど、
肝心の物語の構成にかなり問題があるように感じた。
例えば、サラが納戸に閉じ込めてしまった弟ミシェルの結末。
これは予告編でほぼネタばらしがなされているので
ここで書いても問題はないと思うのだが、まぁ、最悪の結末を迎えるわけです。
つまり、サラたちが強制連行されたあとの部屋に
ジュリアの義理の祖父母一家が入居することになるわけなんだけど、
彼らの息子、つまりベルトランの父親の部屋の納戸にはミシェルの死体があるわけです。
ところが、なぜか彼らは鍵の掛かっている子供部屋の納戸を開けないんですよ。
新しく越してきた部屋の鍵の掛っている納戸。しかも中から悪臭までする。
にもかかわらず「扉を壊したくないから」と彼らは納戸をこじ開けようとはしないわけです。
これがどうにも不自然に感じたんですよ。なぜこじ開けてでも中を確かめないのか。
どうもこれ、ただ「サラに開けさせるため」という
物語上の都合でしかないように感じたんですよ。



不都合な結末の、さらにその先を語る都合の悪さ


それと、サラがミシェルを助けるために脱走する物語が
最悪の結末を迎えてひとまず一段落するわけなんですが、
このあとサラがどういう人生を送ったかという話が長いんですよ。
おそらく「長い」と思えたのは少女時代のサラの物語に比べて、
その後の彼女の人生の描写があまり魅力的でないうえに、
成長したサラの物語をそれまでの再現ドラマ風ではなく、
残された彼女の家族による証言によって語るという
いってみればドキュメンタリー風に語り口を変えてしまったことも
僕は失敗だったのではないかと思いました。

まぁ、自分たちにとって都合の悪い過去と向き合おうとする、
その製作者の姿勢は映画人としても、人間としても立派だと思います。
ですが「事実は小説よりもなんとやら」といいますか、
それを語るための物語が圧倒的な事実に比べると
残念ながら負けてしまっていたと感じました。