どうも、はちごろうです。

正月から引いていた風邪もどうやら治まってきて
まだ鼻をぐずぐずさせていますがどうにか本調子。
まぁ、ぼちぼちやっていこうと思います。
さて、映画の話。

「永遠の僕たち」

「グッド・ウィル・ハンティング」「MILK」のガス・ヴァン・サント監督の新作。
主演は故デニス・ホッパーの息子ヘンリー・ホッパー。共演に加瀬亮。
幼いころに交通事故で両親を亡くし、自らも臨死体験をした青年イーノック。
以来彼は第二次大戦の日本の特攻隊員ヒロシの幽霊が見えるようになる。
学校にも行かず、他人の葬式に知り合いを装い参列することを楽しんでいた彼は、
ある日、葬祭場でアナベルという名の同世代の少女と知り合いになる。
以来、イーノックは彼女と一緒に過ごすようになるのだが、
彼女は脳腫瘍で余命わずかと診断されていた。



「死」と戯れる子供たち


「人の死=悲しいこと」ということを人はいつ教わるのだろう?
他人の葬式に紛れ込むのが趣味というイーノックの行為は
普通に考えたら悪趣味だし、死者を愚弄している行為でもある。
だが、おそらく彼が他人の葬式に参列するのは
「死」というものの一般的な意味が理解できない、
もしくは理解する機会をもたずに生きてきてしまったからだと思う。
彼は幼いころの交通事故で自らも臨死体験をするほどの状態に陥り、
その間に両親という一番身近な存在の死に立ち会えなかったことで、
「人が死ぬこと」というものがどういうことなのかという実感が無い。
というか、「両親の死」という、「死=悲しい」ということを実感する
一番の機会が欠落した状態で青年になってしまったのである。
つまり、彼が他人の葬式に参列するのは、
「死」というものへの好奇心を充たすためなのかもしれない。
そんな彼がアナベルという少女と知り合い、行動を共にすることで、
「かけがえのない存在」というものを抱えることになる。
(演じているミア・ワシコウスカが可愛いのなんの!)
そして彼女が死の床にあるという事実により、
彼は初めて「死」のもたらす悲しみや恐怖を知り、
同時に「生」の喜びや素晴らしさを知っていく。
つまり、この作品は「死」というものを知ることによって
「生」の価値を学んでいく青年の物語であるといえるだろう。



特攻隊員ヒロシの存在理由っていったい・・・


しかし、この作品で非常にインパクトのある存在の
イーノックにだけ見える特攻隊員の幽霊ヒロシ。
このキャラクターが非常に厄介な存在なのである。
彼は孤独なイーノックの友人として、
時には遊び相手になったり、相談相手になったりするのだが、
実は彼の存在理由というのがほとんど明示されない。
日本人にとって「特攻隊員」という存在は非常に取り扱いの難しい、
それこそ「何か意味があるんじゃないか?」と
ついつい推測してしまう存在なんだけれども、
ところがこの作品では単に「若くして命を落とした人」ぐらいの意味でしかなく、
正直なところ、特攻隊員でなくても良かったのではないかとすら思うのである。
(もしかしたら演じている加瀬亮が監督のガス・ヴァン・サントの好みだからかとも思う。
 実際彼はすでにゲイであることをカミングアウトしてるしね)



夢と現実のあいまいな世界、悪い意味で


それと同時に、このヒロシというキャラの扱い方も支離滅裂。
例えば彼は幽霊なわけだが、なぜか物質に干渉できる。
つまりイーノックと一緒に走っている列車に石を投げたり、
潜水艦ゲームの駒をゲーム盤に差し込んだりしているのである。
そればかりか映画の終盤ではイーノックを殴り、
首を絞めて気絶までさせてしまうのである。
それと同時に、彼は医学的に考えればイーノックだけが見える幻覚であり、
一緒に行動するアナベルも最初は見えていないのだけれど、
それが映画の終盤、いよいよアナベルが死の床にいるとき、
ヒロシは彼女を天国まで連れて行く役目を務めるため
それまでの特攻服からいわゆる正装姿で登場するんだけれども、
その姿はどう見ても終戦直後の昭和天皇の扮装に見えて
日本人としてはそこになにかしらの意味を邪推してしまう。
しかもその姿がアナベルに見えているようとも取れるのである。

「死」というものの概念が欠落した少年少女が
その穴を埋めるために死と戯れるというのは
往年の名作「禁じられた遊び」に近いような気もするんだけど、
(遠い昔に1度だけ見たっきりだから記憶はおぼろげだけど)
もしかしたらこの映画の製作者はそんなことはどうでもよくて、
ただ若い二人が死と戯れることで結果的に生を謳歌する、
その表面的な見栄えの良さだけを作りたかったのか?とすら思いました。
確かに予告編にも登場する、道路に寝転がった二人が
ロウ石で自分たちの寝姿を地面に縁どっていくシーンはおしゃれに見えたしね。